2011年11月6日日曜日

グローバル化とフェアネス

 久しぶりに「マル激トーク・オン・ディマンド 第550回(2011年10月29日)」を見て、グローバル化に対する宮台・萱野氏の視点と、ちょっと前からブログに書いていた私の視点やニュアンスがだいぶ違うという事に気付いてショックを受けた。私自身は宮台・萱野氏の論説は前からずっと好きなのだが、それでもこれだけ考えが違うのかという事に驚いた。また私が問題提起していた内容というのが、それぐらい特殊な事だったのかなと考えさせられた。

 ではそもそもどこに違和感を感じたかというと、菅野氏が指摘するグローバル化の問題とは、つまりは各国の経済、ひいては各国間の経済格差の問題という指摘だった。グローバル化を推進すれば、安い労働力との競争で国内経済は苦しくなる、しかし世界全体で見れば経済格差を減らす事になる。だからグローバル化は必然的な流れであって、あとは過激な変化をどうやって緩めるか、自国の経済をどのように守るかをナショナリスト的な視点からも考える必要があるだろうといった論説だった。
 別にいっている事に間違いはない。しかし私はこの議論の展開にどうしても強い違和感を覚えた。「ああ、こんなに実は視点が違ってたんだ」という驚きもあった。そこで改めて気がついたのだが、私が何回かブログで指摘してきたグローバル化の問題とは「経済問題」を指しているのではなく、だから菅野氏の論説に強い違和感を覚えたということだ。


 以前のブログ「グローバル化とは価値観の統合であり、ゆえに反逆すべし」に書いたのだが、私はグローバル化というものは結果的に世界を均質化するようなものだと思っている。ずっとイメージとしてあるのは「琵琶湖」にブラックバスを放流する図である。つまり強いものが一人勝ちして結果的に他を排除する、ひいては結果として世界を均質化する。琵琶湖の例ではブラックバスが一人勝ちして、在来種は絶滅の危機に瀕する事となった。私はこのような例は、結果として本来あった多様性を無くし、単純で均質な物だけにするものであり、ゆえに社会や文化の進化として視点からみて問題だと考えている。

 でも菅野氏が言うように、世界を統一ルールで運用しようとする事は、ある意味「フェア」とも言える。しかし、私はあえて反論したい。

 「そもそも人種や国土、そして歴史・文化、宗教に至る異なる者達に同じルールを適用する必要があるのか?」

 そもそも人間というのは色々な差異があって当たり前だし、国家となるとなおさらだ。国が違えば育つ作物も違うし、気温が違えば暮らし方も変わる。それぞれの想いや文化や価値観があって、目指す幸福感なども違うだろう。だから、そもそも異なる者達に同じルールだから「フェア」です、というのが意味があるのかという疑問である。そもそも彼らはフェアを望んだのか?

 そしてグローバル化が目指すフェアネスはあくまでも、ビジネス上だけのものである。これらを進める暗黙の前提が、経済成長が至上価値であり、誰もが先進国と同じ暮らしをしたいだろうという自惚れ?に似た思い込みではないだろうか。
 全員がビジネスマン(ホワイトカラー)をひたすら目指すような単一の競争社会、単純な優劣、あらゆる価値を金額に換算可能なものとする前提、そして金額換算できない価値を除外する試み。現在のやり方が正しくて将来も継続可能だという前提がたって、それらは初めて本来の妥当性を持つ。

 しかし、私にはどうしてもグローバル化に代表されるような現在モデルが優れたものでも、永続的に運用できるものだとも思えない。特に永続的に継続できるのかということに多いに疑問がある。
<参考>
・今こそナショナリズムを議論の出発点に「マル激トーク・オン・ディマンド 第550回(2011年10月29日)」
 http://www.videonews.com/charged/on-demand/541550/002124.php 

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