2014年7月20日日曜日

「アクト・オブ・キリング/映画」を観て

 ついに「アクト・オブ・キリング」を観てきた。この映画はパンフレットの記事を偶然見かけた時に、その異端な内容から物凄く興味を惹かれていて、是非とも映画館へ行かなければと思っていた作品だ。たまにこんな風に是非見なければ、と思う映画はあるのだが、私はついつい面倒で見逃してしまうことが多くて後悔することも多い。今回はちゃんと見れて良かったし、内容も良かった。これは、ぜひお勧めして見てほしい映画なのでこの記事を書くことにした。

「アクト・オブ・キリング」は60年代のインドネシア大虐殺(100万人規模)をテーマとして、当時の人々にインタビューをして作り上げたドキュメンタリー映画である。大虐殺事件は複雑で解明されていない部分も多いようだが、説明の為に大まかにだけまとめると、次のようの事件である。
1965年にインドネシアのスカルノ大統領のもとで、陸軍の将軍がクーデターを起こしたとして、「スハルト少将(後の大統領)」が鎮圧する。そしてスハルト少将はクーデターを共産主義者によるものとして、インドネシア全般の共産主義者又は敵対者を次々に殺戮してゆき、ついには大統領も殺害して全実権を手中にしたのちに自らが大統領になって独裁体制を引くという事件である。なお実際の虐殺は、民兵とプレマン(自由人と呼ばれる地元のギャング)により大部分が行われたとされている。

ただしこの映画が特殊なのは、虐殺事件を調査する為に加害者側(プレマン及び民兵など)と直接話をして、さらには加害者側が当時の再現映画として作ろうとしたことである。そして「アクト・オブ・キリング」は、この加害者側が作る映画のメイキング映画という形式で様々な話が展開されてゆく・・・!!

まず、これが普通有り得ない!! 虐殺事件といったものは通常はタブーとされていてインドネシアのように加害者側が支配しているなかでは、話をするだけでも難しいのだが、なんと当時の実際に虐殺を行った加害者が役者となって再現映画を作るのである。まずこの試みが前代未聞である。
ただしオッペンハイマー監督は、最初からこのような計画を立てていたわけではないらしい。普通にドキュメンタリー映画として虐殺を取材していたら、軍から脅迫をうけて中止となった。そこで仕方なく加害者の話を聞こうとしているうちに、再現映画を作ってみてはという話になった。これが話だけ聞くと理解できないが、その背景としては加害者側は現在でも実権を握っており、残酷な虐殺者ではなく、一種の英雄のように扱われているという現状があるから出来たことである。よって映画は加害者側の、過去の栄光を再現して多くの人に自慢する、もしくは宣伝するというような目的にて作られる。だが実際に再現映画を作るうちに加害者側の認識も複雑なものへと変わってゆく・・・。


おっと、映画の説明だけでこれだけ文面を割いてしまった。つまりはそれだけ特殊な映画であり、おそらくは今後もこんな映画は二度と作れないのではないかと思う、奇跡のような作品である。映画全体としては善悪が逆転した世界によって行われる、ブラックコメディーのように物語が流れてゆく。スプラッターほどのグロいシーンはない(いくつか再現映画のところで血とかあるけど)、だから普通の人でも見れるだろう。時間は2時間ほどだが、異世界のような話に引き込まれて時間が長いとは思わなかった。あらすじ的な説明はこれぐらいにするが、あとは実際に観て欲しい。そしてどう感じたかを教えてほしい映画である。


私はこの映画をみて、どんな事を思ったかというと、大きくは2つの事を考えていた。。

1つは、20年以上前(まだパソコン通信の時代)に、ネット上で世界平和について語る人がいた。それ自体は別に悪い事ではないが、私は彼が語る言葉にどうしても違和感を感じてたまらなくなって、掲示板だと思うがコメントを付けた。

そこで当時の私が書いたのは、世界の紛争などを考えるのはいいが、まずはもっと身近な事を理解してくれという事だった。例えば当時の身近にいる老人は第二次世界大戦の生き残りであり、彼らの数人に一人は大陸で何人かの人を殺してきたのだ。普段の付き合っている礼儀正しい、善良そうに見える人々が、実際に殺し合いをしてきた。あるいは一方的に殺人をしてきているのかもしれない。その事実を理解して、そのうえで語らないとあまりにも空虚すぎる・・・と。確かこんな意図のような事を書いた気がする。

この映画の中で中心人物として語る、1000人を殺したというプレマン(ギャング)は映画上では陽気で人好きのするような人物である。孫もいて家族や友人を愛している、ごく普通の人間である。そして彼の周りにいる当時の虐殺者、あるいは現在も権力を握っている民兵なども、多少はやくざなところがあったとしても、基本的にはごく普通の人間である。その普通の人間が、簡単に虐殺者になったという事実、それらを、この映画を見ると有無を言わさず理解させられる。

たまたま最近は「永続敗戦論」や三島由紀夫の本を読む機会があって、日本の戦争について考えることが多かったから、余計にこの事実について改めて考えさせられた。それは日本では、いかに「戦争の事実」「敗戦の事実」が忘れ去られてきたかという事。しかも、むしろ「あたかも無かった事」「悪い夢」「済んだ事」といったように消し去ろうとしてきた事だ。
なんか、こういった事を書くと「ネトウヨ的な人」が、永久にアジアに謝罪しろというのかと非難しそうな気がしたので、一応補足しておくが、私はそんな意図で言っているのではない。そうじゃなくて、我々はそもそも「これほど危うい、ちょっとしたきっかけで、やらかしてしまう」、そういった存在だという事を忘れるなといういう意味であり、故に第二次世界大戦の事も、すべて忘れるわけにはいかない部分があるという事である。
そして、この「我々の危うさ」こそが、まさに現在の日本で海外から懸念されていることであり、私が安倍総理に懸念することである。


2つめは、共産主義とはいったい何だったのかという事だ。ちょっと前に三島由紀夫の「若きサムライのために」を読んでいて、全共闘について書かれている部分を読んだ際にも思ったのだが、現在に住む私にはどうしても理解できない部分が多い。
・なぜ、当時の人はあれほど「共産主義」に入れ込んだのか?(革命としての破壊を必要とするほどに)
・また、どうして当時の人はあれほど「共産主義」を恐れたのか?

ちなみに私は一般教養として一応マルクスも代表的な部分だけでも読もうと試みた事があるのだが、すぐにイラッとして投げ出してしまった。合う合わないの問題なのかもしれないが、私にはマルクスという奴が、変に理屈っぽくて回りくどい(無駄に引用多いしね)文に思えて「こんな鼻持ちならない奴の話など聞けるか!」といった風に思ったのだ。
だから私には、なぜマルクスがあれだけ多くの人々を動かせた理由が分からない。例えばこれが、ヒットラーならば簡単に理解できるのだけども。まあ個人的には、両方とも問題を異常に簡略化して極端な3段論法的なものでシンプルに美化しただけの、戯言としか思えないのだけどね・・・。

そして同時に、なぜ当時は共産主義があれほど恐れられたのかということだ。「アクト・オブ・キリング」でも描かれているように、共産主義者だと言えば、無条件に殺してOKとすんなり通る処が分からない。ちなみにこの映画で描かれている虐殺を行った政権は反共という事で西側には支持されてきた。当然日本もこの虐殺には目をつむって支持をしてきたのだという事実も忘れるわけにはいかない。


しかし、なんというか、むかし、近代史について幾つか読んでいたら、あっちこっちでの虐殺の話ばかりが多くてなんだかブルーになったのを思い出した。アフリカないし、イスラエル然り、近い場所では北朝鮮とか。そういえば過去に友人が、日本というのは例え猫の死骸ですらすぐに片づけられる、世界で最も「死」が隠される社会だと言っていた。そういった忘れそうになっている物を思い起こさせる映画である。

<参考リンク>
・この大虐殺には日本も関与していた─映画『アクト・オブ・キリング』デヴィ夫人によるトーク全文
http://www.webdice.jp/dice/detail/4161/

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