2014年7月27日日曜日

くたばれSNS

 まず初めに、「くたばれSNS」などと言ってみたもたが、これは良いタイトルが思いつかないので、とりあえず言ってみただけである。私は本気でSNSを全滅させるべだとか、SNSをやめる運動を開始すべきだ・・・そうだ有志をFaceBookで募ろう、みたいな事は思ってない。
 しかし、ときどきSNSでの過剰さ、パラノイア的というか強迫精神症というかが気になる事がある。そしてこの問題を考えてゆけば、
本来は多様性を育てたり維持したりするはずのSNSが、実は逆の役割になりかねないのではないかという懸念があり、ちょっと違う視点でSNS批判をしてみようと思う。


1.まず、何が気に入らないのか?
 SNSの問題として良くあげられるのは、一日の大半がSNSに費やされて人生の浪費じゃやないかというものをよく聞く。有名な話はFaceBookの「いいね」ボタンを押さないといけないというプレッシャーがある。これは友人が書いたFaceBook記事に「読んだよ、いいね」というチェックを押してあげないといけないのではないかという、プレッシャーである。特に日本人だと「あ・うん」呼吸を優先するので、こういうプレッシャーは強いと思う。「いいね」ぐらい大したことではない、しかしこれは数十人だとどうか、とういて記事を読み切れないし、中にはツマラナイものもあるだろう。でも知り合いだと批判もしずらいといったジレンマが起こる。
 だから昔みただれかの漫画(短編だったかな?)では、N氏は毎朝起きると、FaceBookのすべての記事に「いいね」をつけてくれるボタンを押すのを日課としている・・・といったような笑い話がでてくる。(じつはこういうツールが既にできているかもしれないのだけど)
 これがよくあげられる問題である。しかしそれ以外に最近私は「共有(シェア)しろ」というプレッシャーというのが、だんだん世の中で強くなってきたなと感じるようになり、ほかにも色んな問題(ウザさ?)が多く発生しているように思われる。


2.SNSの具体的な問題
 1.で書いたようなSNSでの不快さについて、気が付いたものを挙げてみると次のようなものとなった。基本的にはしつこいというか、押し付けられているという感覚からくる窮屈さ(プレッシャー)である。

<SNSの窮屈さ>
(1)「読んだ」プレッシャー(例:LINE)
(2)「いいね」プレッシャー(例:FaceBook)
(3)「シェア」プレッシャー
(4)「ぼっち」プレッシャー

 (1)はLINEに代表される、早く読めよというプレッシャーである。LINEは既読か未読かわかるので特に強い。2,3日放置すると友達が減るかもれない。

 (2)は最初に説明して、FaceBookで「いいね」ボタンを押せというプレッシャー。お世話になった人に「いいえ」は押しにくい。

 (3)は最近、Gメールとかを使っていたりして感じるようになったのだが、Google+とかで「あなたの意見をシェアしませんか?」的なしつこい押しでウンザリさせられる事が多くある。ほかのメディアでも似たような事があるが、最近は共有しろというプレッシャー、言い換えると「なんでおまえ共有しないの? ケチか?」とやんわり詰られているように感じる。

 (4)はSNSで知り合いが少ないと、変な人かさみしい人と思われるのじゃないかというプレッシャーである。例えばTwitterなんかは顕著で、フォロワー多い方が偉い的ないびつなステータスが生じている。

 しかし、ここまで書いていて気が付いたのだが、このSNSのプレッシャーというのは、全てが身近な現実世界であったものばかりだ。書いているうちに、なんだか、人間の業(カルマ)というか性(サガ)を見ているようで、ちょっと悲しい気分になった。例えばこれを田舎の暮らしに置き換えると分かり易い。

<実世界の窮屈さ>
(1)「読んだ」プレッシャー
 >回覧読んだか? 向かいの○○さんの嫁の話を聞いたか? 的なものとか

(2)「いいね」プレッシャー
 >おまえも、そう思うだろう、なぁ? 的なちょっとくどい人が身近にいるような感じ

(3)「シェア」プレッシャー
 >おまえんちのあれ良い物だねちょっと使わせてよ とか

(4)「ぼっち」プレッシャー
 >なんか田舎で浮いちゃっている気がして不安的なものとか

 なんか例えはもう一つになってしまったが、これらは全て「地域共同体」や「会社」「学校」といったローカルコミュニティの課題に置き換え可能であり、完全に当てはまる。よく考えると、本当に全部が人間的な日常的な課題ばかりだ。

 という事は、これらの大部分は技術が生み出したものというよりは、現実世界をモデルに作られたがゆえの仮想世界上での制約だという事がわかる。だから、こういった問題を根本的に解決するには、まず現実世界での「ウザさ」というものと、我々がどう向き合うべきかというテーマについて考えなければならない。つまりは、次のような深い命題に辿り着く。

「日常生活をウザくもなく、寂しくもないような、快適な暮らしや付き合いをどうやって築くべきか」

 しかしこのテーマは、壮大すぎて明らかにこの記事や私の理解を超えてしまうので、ここでは語らないことにする。
(おもいつきで書き始めた話から、こんな根本的なテーマが発生するとは、実はちょっと驚いている・・・)


3.SNSは何が違うのか
 2.ではSNSの問題は、実は現実世界と同じであると書いた。ただし、すべてがそうだとは言い切れるわけではない。今まで無かった新しい道具は、必ず新しい問題を生むというのは良くあることだ。そこで思いつくものを列挙してみた。

<SNS独自の課題>
(1)拡散範囲が広い、全世界
(2)履歴が残る、俗に言う黒歴史とか
(3)匿名・実名の混在社会

 SNSを実社会をモデルとして仮想世界の一つだと考えた場合に、SNSならではの課題を挙げたのが上記である。

 実をいうと(3)の匿名性については、あんまり影響が小さいのかもしれない。現実世界でもよく見ると、詐欺だのカタリだのあるし、作家はペンネームを名乗るし、サラリーマンは役職などのニックネームで呼び合う。実は実名などというものは、お互いを識別できる以上はそれほど意味がないのかもしれない。

 むしろ、もっとも重要かつ課題として注意すべきなのは、(1)の全世界に拡散するということだと思っている。そしてこれが、本当に書きたかったこの記事のテーマである。(途中で脱線しまくったせいで話が見えにくくなったけど)
 だから、まず私的な例からこの問題について説明しようと思う。


 そもそも私が気に入らなかったのはGoogoleとかでしつこく「共有しませんか?」と聞かれることだった。そして、それが繰り返されるたびに「なぜに奴らはそれほど共有させたがるのか?」「共有する事にどれだけ意義があるのか?」といった事を考えるようになった。

 そして、ようやく何故自分があれほど、共有しろというメッセージに対して不快なのかがやっとわかってきた。彼らが共有しろとプレッシャーをかけてきているのは、私の持つ個人的な情報や知識や体験、あるいは繋がりである。これらは、言ってみれば私の識別情報の一つだともいえる。私が「私」であるという理念やアイディンティと言い換えてもいい。だからこそ、私は自身の識別情報を公開するのを無意識的に嫌ったのだろう。

 これは感覚的なもので、言葉で説明するのは難しいのだが・・・

 私が理想とするイメージは「多様性に満ちた世界」である。これをメチャクチャ大雑把にいうと、所々に「適当さ」「冗長(非効率な)」「気まぐれ」的な物があって、それも良いんじゃない的な世界である。そして、それはすなわち「自然界」の姿だと考えている。

 自然界というのは、進化のしくみや、マイナーな特殊な生物、棲み分けの形等々といった事に興味をもった人ならば、すぐにわかって貰えると思うが、「ものすごく完成された緻密な環境」であると同時に、そこに「至る経緯はものすごく適当」である。ここでいう適当というのは、仮にサイコロを振りなおすように進化をやり直したとしたら、二度と同じものができるとは思えないという意味である。

 「適当だ(多様性)」というと、これは悪い事のように思う人がいるかもしれないが、これは凄い事であって、だからこそ生物や人類が生き残っていると言ってもいい重要なポイントである。危機的な事柄(天変地異、災害、気象変化、疫病等々)があっても、生命が残っているのは、簡単に言うと「色んな所に、色んな奴がいたから」である。

 ここで話を戻すと、私はSNSの文化(シェアしろという脅迫)はインターネットでの世界への伝播性が強すぎるがゆえに、「多様性を失わせる」方向に進ませかねないのだと懸念している。

 例えば、もう少しテクノロジーが進んで、私は可能なほぼあらゆる情報を共有したとする。なお必然的に私は、自身の情報を共有する為に公開し、同時に他者の情報を共有する為に取り込むとする。
 そうなった世界では、結果的にどいつもこいつも似たような奴ばかりいるみたいな、つまらない停滞した社会になりかねないのではないだろうか? もしも「人は本来影響されやすいものである」、だから付き合う人に染まってだいたい似たような人になると考えるならば、色んな色を混ぜすぎたら結局は黒っぽい色になったというように、均質で似たような人ばかりのような結末にたどり着くのでないかという予感がする。
 だから「おまえも、シェアしろよ、オラオラ」的なノリに対して、「勝手にいっしょみたいね決めつけるんじゃねーよ」的な反感を感じるのである。

 しかし、私は別にSNSを全否定するわけではない。むしろ、あって便利だし貢献している部分も大きいと思う。問題なのはSNSに流されてしまう事だ。SNSに流されて似たような一人になるのではなく、もっと独自でワガママであってもいいんじゃないかと思う。

 だから、提案するのはSNSの各種プレッシャーにまけずに、もっと歪で偏屈で気まぐれであっても良い、むしろその方が良いんじゃやないかと思う。

<対策「SNSプレッシャー」>
(1)「読んだ」プレッシャー(例:LINE)
 >気が向かないから見ない

(2)「いいね」プレッシャー(例:FaceBook)
 >つまんないのは「いいえ」

(3)「シェア」プレッシャー
 >秘密があってこそが人生、わざわざシェアする情報はあまりない

(4)「ぼっち」プレッシャー
 >孤独に歩め、悪をなさず、求めるところは少なく・・・的でもいいじゃない


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