2014年8月2日土曜日

遠まわしに考えた、選択しない社会というもの

 長らく体調を崩しがちな為に、最近は生活習慣を見直そうと考え、なかでも食事を基本的な部分から見直す事にした。ちなみに、それまでは太らないようにカロリーはある程度気にしているが、以外はサプリメントを飲んで、無理やり帳尻を合わせるようにしていた。もっとも手間がかからない、単純な方法である。
 しかし、根本的に考え直すならば、まずそこから見直さないといけないだろう。じゃあ代わりにどうするか?

 新たな健康法を求めればよいのか、最新の科学的な知見を考慮すべきか・・・色々とあるが、私は最新科学や流行の方法ではなく、なるだけシンプルな古くからある日本の食事に戻そうと考えた。単純に言うと、江戸~昭和初期ぐらいの「まだ西洋化していない食生活」を理想とした。
 どうしてそうなったかと言えば、食事法については最新科学(ホントか疑わしいのもあるが)で色んな説によるものが沢山あって、まずどれが正しのか分からない。一部は正しいのかもしれないが全体的には間違いが多い可能性もある。
 だから、あえて最新科学をちょっと置いといて、古くから日本人が暮らしてきた食事(西洋化する前)を選ぶ事にした。何故ならば、これらは長い古人の経験や言い伝えに裏打ちされた実績があるので、もっとも手堅い方法でもあるし、現在立ち戻る原型とするに相応しいと思ったからだ。

 そんな経緯で関連する本を調べているうちに行き当たったのが「粗食のきほん/佐藤初女・幕内秀夫・冨田ただすけ」という本である。この本は面白かった。そして食事の話だけではなく、もっと人間や生活といったものに対する根本的な事を教えられた。
 中でも特になるほどと思ったのが、料理を作る時に軽量カップを頼りにするのではなく、自分で味を見て考えなさいという指摘だった。例えば塩分一つにしても、味を見ることで必要な塩分量がおのずとわかる。つまりは体が欲しているもの知り、それを与えるのだと考えて料理を作りなさいというものだ。

 これはとてもシンプルな教えであるが、とても理に適っている。そして、この話を聞いて思い出したのが「脳は体に悪いものも欲しがるが、体は必要なもの(良いもの)しか求めない」といった話だ。これは、例えばタバコや麻薬は脳が求めているのであり、体は基本的にはそれを拒否しているという意味である。さらに、関連して思い出したのは「頭で考えている内は二流である」「全身をもって行動し考えよ」という話である。

 これは一見バラバラな話をしているようであるが、食べ物話では済まない、とても深い示唆を含んでいる。例えば次のような話をよく聞いた事はないだろうか?

 とある生産性が上がらない工場がある。その工場では年々少しずつ生産性が低くなり、社員はよく上層部に小言を言われていた。だが社員からすれば、年々機械などは消耗したり、十分にメンテナンスはできない等といった色々として欲しい事もあって、上層部になんども言っているのだが、一向に話を聞いてもらえないと不満を抱いていた。
 やがて上層部は、生産性が改善できないので外部コンサルタントに依頼する事にした。そしてコンサルタントの指摘により、色々な機械やソフトを購入する事になった。だが最新の知見や方法論によるとして期待された方法だが、もひとつ目覚ましい成果は上がらない。むしろ、今までと変えた事によるトラブルなどが目立つぐらいである・・・これは、わりとどこにでもある話だと思わないだろうか。

 もしもこの話を、上層部=脳、社員=体と置き換えれば、初めにしていた食事の話と同じである。問題なのは、どうして私たちはサプリや新たな健康法を試す前に、まず自身の体が欲している事を聞かないのかという点である。味覚などは正にそうだ。そもそも体に必要な栄養素といったものは個人差があって同じではない、だからこそ味覚は必要な情報を伝えるのである。例えば普段は酸っぱい飲み物であっても、疲れている時にはそれが甘くておいしいと感じる時のように。

 こういった事を踏まえて周りを見れば、似たような問題は多くあるような気がする。そんな事はないという人がいるならば、いちど「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。/カレン・フェラン」(サブタイトル:コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする)を読んでみる事をお勧めする。
 私はと言えば、つくづく「こんな当たり前の事が分かってなかったのか」という事を思い知らされた。同時に食事ばかりではなく、今までの仕事ぶりなどにつけても、本当にちゃんと話を聞けていたのだろうかという疑問を持った。


 なお食事の話題に関連して興味をもって、最近は貝原益軒(江戸時代)の「養生訓」を読んでいたが、こういったものは、そもそも現代人の考え方の根本的な問題からくるのではないかと思えてきた。「養生訓」を読んでいると、これは単なる健康法の話ではなくて、むしろ「幸福とは何か」とか「生きるとはなにか」といった事に明確な指針をもって書かれている。また、そうでなければ語れなかったのだという事がよくわかる。

 それに比べれば現在人は、自分の内なる声をきかず、何かにつけて外部に文句ばっかり言っているような気がする。昔何かで読んだ言葉に「文句を言うのは自分で選んでないからである」というのがあったが、一番の原因はここにあるのだと思う。

 現在、特に日本は顕著なのかもしれないが、今はあまり自分で選ばない時代である。何故ならば、たいていの事にはマニュアル(自己啓発本なども含めて)があるし、学校や社会ではあらかじめ「こうしなさい」という指示がある。分からない事があってもネットで探せば、どっちが得か損かといった事が書かれてある。
 自分の頭で考えず、自分で選ばず、だから内面は空っぽであり、出来ることは文句をいうだけしかない。例えばファッションや音楽にしても、どれだけ自分の意志で選べているというのだろうか。メディアや友達のだれかの影響ではないのだろうか。

 選ぶ必要がない、または巧妙に選ばされる社会。そもそも日本では幸福というものもあまり選ばせてないような気がする。子供に有名大学~就職~家建ててといった、あたかも幸福が決まっているかのようなワンパターンの押し付けは強すぎるような気がする。

 また貝原益軒を読んでいると、西洋化する前の社会では、比較的それぞれの暮らし方や幸福感というのは、わりと明確だったように思える。しかもあまり物質に頼らない(当時は無かったからだし)方法である。
 例えば「料理」ひとつを取っても、それをどう考えるかはさまざまだ。時間のロスや面倒な事という考えもあるが、逆に作ることを楽しむこともできる。古人はそういった生活のもろもろを、苦労であると同時に楽しもうとしてきたのではないかという気がする。

 だが西洋化した社会(近代化した社会?)、中でも最近の資本主義社会では、すべてが損か得かで判断するという方向性が強すぎる。それは一見、合理的に見えるが近視眼的であり、局所最適化はするが、全体最適化に失敗するような問題を多く引き起こしている。
 ひらたく言えば、いっとき流行った「成果主義」だが、私は「成果主義」で成果がでたという話を聞いた事がない。この原因はさまざまで説明すると長くなるので端折ると、ニンジンぶら下げて煽るような短期的な方法は、結局のところは効果どころか問題を引き起こす方が多かったという事を示している。


 話が脱線しまくったので締めようもないのだけど、つまりは食の話題から、現在の「選択していない」という病に考えがたどり着いたという事が言いたかったのである。もしも自分がクリエイターならば、作ることは最大の選択である。やっぱり「Everyone, Creator」でないとダメなのかもしれない。そういえば、料理を作ることはもっとも身近な「Creator」だったね。

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