2014年8月12日火曜日

映画「風立ちぬ」について思った事

 宮崎駿の「風立ちぬ」、この作品はあたかも「古典」となるように新たに創られた「映画」であるように思う。ゆえに面白かったのだが、同時に少し悲しくもあり、色々と考えさせられた。だから、ここに書くのは作品論というよりは、映画論かもしれないし、あるいは文化についてかもしれない。

 多少、ネタバレ的なところもあるので、ご了承を・・・。

 まず「風立ちぬ」という映画は、大きくは2つの物語から成り立つ。実在の人物や事象もあるが、あくまでもフィクションである。

1)実在した零戦の設計者「堀越二郎」を元にした物語
2)結核の恋人との生活を描いた小説「風たちぬ/堀辰雄」の物語

 私が見た所では、この映画のメインテーマは小説(風立ちぬ)であり、映画化する際のドラマとして夢を持った飛行機設計が戦争に流されてゆくさまを入れたのだと思う。だから映画の世界観は小説のものであり、ちなみに私は小説も読んでみたのだが、これが良かったし、この小説で表された独特の空気みたいなものを、おそらくは監督(宮崎駿)は描きたかったのだと思う。

 ちなみに、この映画は右寄りの人(百田尚樹)からは熱狂的に指示されて、韓国では一部は軍国的だとか批判されたりもしたようだが、内容的にはまったく軍国的なところとかはなくて、別に右翼・左翼がどうたらといったのはないと思う。たしかに主人公の堀越二郎は戦闘機の設計者であり、第二次大戦の物語なので、戦争に関する描写もある。
 ただ、おそらく監督が描きたかったのは、過酷な時代に夢を追おうとした人を描こうとしただけで、べつに戦争ではなかったのだと思う。むしろ、本当に描きたかったのは小説(風立ちぬ)にあった、繊細で日々を大事に生きようとした人の姿なのだと思う。

 私はその、繊細にそして日々を噛み締めるように大事に生きようとする二人の姿に感銘を受けた。だが、同時になんだか少し悲しい気がした。それは、この映画に描かれたような世界が現在に無くなっている事、そしてそれは物語の上ですら無くなったしまったのだという事を感じたからだ。

 昭和初期(戦前)には、あっただろう美しさ、だが現在では失われたものがある。ゆえに、この映画は新しく創られたものでありながら「古典」なのである。

 「いったい何が違ったのだろうか?」

 難しいが、なんとか説明を試みてみる。理由のひとつは、登場人物が多くを語らないからだと思う。現在の映画に慣れた人からすると、もの凄く無口だとなるだろう。だが、それゆえに美しい。そうだ、美しいものは、自らを「美しい」とは語らない。ただ存在すれば良い。存在そのものが美しさだからだ。

 だが、これが現在は最も描くのが困難なのだと思う。本来は「言葉で説明できない美しさ」というのがあったはずなのだが、いつのまにか私達は「言葉で説明できる美しさ」に着目するあまりに、説明できない美をどこかに置き忘れてきたからだ。

 だから小説(風立ちぬ)を読んで、私はちょっとショックを受けた。それは、私達がいつのまにか「退化」したのではないかと、恐れを感じたからだ。理由は沢山あって、どれのためとは言えない。コンピュータ化、戦後の教育で文化が変わった事、物質主義的なものが多くなったこと、反知性主義的なものが目につくようになったから・・・等々、きりがない。でも「無くしたくないな、この感じ」というのを考えさせられる映画だった。

<追伸>
 「風立ちぬ」と聞いて、まず私の頭に最初に浮かぶのは「松田聖子」の曲である。これだけで、私は自分の教養の無さを呪いたい気分になった。なんか記憶すらも低俗さに汚されているような気がする。これは別に松田聖子のせいではないないのだけどね・・・。

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