2014年9月9日火曜日

あなたは「縦派」、あるいは「横派」ですか?

 最近「嫌われる勇気/岸見 一郎」を読んだ。これはアドラー心理学(心理学というよりは哲学と呼ぶ方が適切と思う)の内容を、青年と哲学者の対話という形でかいた本である。内容のアドラー心理学について学ぶ事も有益だが、説明する書籍としてもとても解りやすくて面白い良い本だと思う。ぜひとも多くの人に読んで欲しい、無条件にでも読ませたいぐらいだ。
 でも今日はこの本の良さについて語るのではなく、ちょっとこの本で紹介されている「縦のつながり」「横のつながり」という話が面白くて色々と考えさせられたので、それについて書こうと思う。


 では、まず前段の話からすると、アドラー心理学の立場では「人間の悩みは全てが対人関係」であるとし、その根っこにあるのは縦の関係が問題で横の関係がベストだとしている。ここでいう縦の関係とは「上司と部下」「先輩と後輩」みたいな片方が偉いというような関係である。なお対する横の関係は「対等な友人」「自立した人々のつながり」といったものを指している。

 つまりは上下とか縛られた関係はストレスであり、またお互いの自立を妨げる可能性もあり、こういったもろもろが対人関係の悩みの基本となるという考えだ。なお、この話でちょっと面白いと思ったのは、アドラーいわく「人は縦関係か横関係かいずれかひとつしか使えない」という指摘である。これはどういうことかというと、人間というのは案外不器用で、Aさんとは縦関係でBさんとは横関係などとうまく使い分けられるものではなく、結局は全員を縦関係ベースで結ぶか、横関係ベースで結ぶかのいずれしかできないということだそうだ。
 ちなみに縦関係ベースというのは、片方が絶対的に優位に立って下を指導する又は命令するという関係であり、横関係ベースというのはお互いに立場が同等であるが役割が異なるといった関係を指している。例えば会社で縦関係を重視した生真面目な管理職という人がいた場合、その人はおそらくは家庭でも縦関係を持ち込んで命令的に家族を支配しようとするような例が多いということである。

 ここでポイントとなるのは、縦関係ベースの人と、横関係ベースの人の二種類がこの世に存在するということである。そして、この話を読んでまず思ったのは「はたして自分は縦派か横派かどっちだろう」ということと、宗教における神と人間というのは究極の縦関係ではないかという事だ。

 ちなみに私について考えると「横関係派」だと思う。昔からとにかく縦関係が苦手で、うまく縦関係が結べなかったような気がする。運動会系の縦関係しかり、サラリーマン社会の縦関係しかり、思い返せばこういった関係をどうにかこうにか誤摩化してスルーしてばかりだった気がする。

 でも日本について考えれば、日本人は縦関係ベースが多い社会ではないかと思う。体育会系のノリというのは日本はあまりにも独特であるらしい。過去に体罰が問題となった時に思ったのだが、私はつくづく日本の体育会系的なノリが理解できないなとおもった。学校の名誉だかなんだかで生徒を縛り、自主性や個人の特性を無視した訓練の押し付け・・・そんなつまんない事をやって何の意義があるのだろうかと思ってきた。

 そしてこういったノリとだいたいセットなのが、意味不明な根性論で、おかげて日本のスポーツ界というのは先進国の中では比較的に事故が多いと聞く。例えば甲子園で連投させつづけて選手生命を絶たれるような行為がつづけられている。ちなみに私が以前にネットで読んだ記事で衝撃だったのが、ドイツではクラブとかスポーツとかが大好きで日本以上にスポーツが盛らしいのだが体罰というのはない。なんで体罰がないのかをドイツ人に聞いたら「野球が下手なぐらいで人を殴れるか」と言われたそうである。これはもの凄くあたりまえの事だが、日本ではできていない。
 かといって世界では横が多いとかではなく、私の知識で想像するにはアメリカ・ヨーロッパなどは横関係がベースの社会だと思うが、大雑把にいうと東洋やイスラム圏は縦っぽい気がする。

 しかし、そう考えた場合にキリスト教における神を西洋人はどう解釈しているのかという疑問が生じる。神というのは究極の縦社会に見える。ちなみにユダヤ教(キリスト教の原点、旧約聖書)のエピソードでは、アブラハムが神にわが子をいけにえに捧げろと命じられるシーンがある。物語ではアブラハムは神に従おうとするが、子供を殺す直前で神はお前の忠誠を分かったとして止められる。これは非常に強力な縦世界のエピソードに思える。
 だが私は似たようなエピソードは、キリスト教(新約聖書)では知らない。神はどっちかというと秩序の番人として見守るもので、人々に私的な要求はしない。むしろポイントは博愛であって、博愛の究極が神となるので、神は法を設けたが人々に要求や命令をするというイメージではない。そう考えれば、キリスト教の博愛ベースの思想は、必然的に「横社会」との親和性が高い思想なのかもしれない。

 逆に東洋思想では、博愛の概念(慈悲になるのかな?)がないわけじゃないのだけど、そこまでメインに取り上げられてない気がする。多神教でかつ上下関係もあって、必然的に「縦社会」になりがちなのかもしれない。良く考えると「慈悲」というのはやや上から目線の概念だし。インドの「カースト」なんかは代表的であるわけだし。イスラムの「カリフ」とかはよく知らないのだけども・・・。


 まとめると、私は「横派」だし、社会としても「横派」に向かうべきだと思っている。では、はたして「縦派」は全てがダメなのだろうか? 例えば「師弟関係」はどう考えれば良いだろうか、私は独学ベースの人間なので物理的な「師匠」はいないが、それでも書籍を通じて知った「心の師」はある。師弟は縦派っぽくみえるのだが・・・。
 でもつきつめて考えると、同じ「師弟関係」でも、「縦派」解釈にするか、「横派」解釈にするかだけの違いなのだろう。なんせ明確な横派の私に心の師があるのだから、横派でも師弟は存在する。

 ちなみに、なんでこれだけ「縦派」をダメ出しするかという点について私の考えをまとめると次のようになる。

<縦派のメリット>
・シンプルな体系、決断から命令までは早い
・固定した体系なので、個々のメンバーは悩まなくて良い(考えなくて良い社会)

<縦派のデメリット>
・硬直しやすく、柔軟に動けない
・ストレス多い社会、上下関係とか競争指向なため   ※アドラー心理学が否定する理由
・個々のメンバーが考えない、言い換えれば成長の機会を奪われているともいえる

 これらを踏まえて、大雑把にまとめと次のように言えるかもしれない。

・縦派の思考というのは「現状で世界をロック(固定)」する方法である。現状から大きく進歩は望めないが、あんまり悩まなくていいかもしれない。でも徐々に劣化してゆくので、時代がたつと綻びて問題が大きくなる。非民主的な社会にすぐ移行しかねない。
(定期的に破壊する必要性を内包する社会と言えるかもしれない)

・横派の思考というのは「常に改善すべき」する方法と言える。現状を常に考えて、悩むと同時に改善もすればいいじゃないという考え方。民主的であり、民主的であるというのは「個々の人間が賢くなるよう頑張ろうよ」という事を目指す社会。だが価値観が多様なので迷走も多いだろう。

 ・・・いろいろ考えたが、やっぱり私は「横派」である。人(あるいは生命)は本来だれでも「より成長したい(より良くなりたい)という願いを持っている」というのが持論だし、迷っても自分で考えて成長できる可能性がある社会や関係の方がいい。


 はたして、あなたは「縦派」、あるいは「横派」?


<余談>
 ちなみに私は昔から根性論は大嫌いで、常々は部下とかチームメンバーには「根性ではなく、知恵と技術で問題解決しようよ」と言うようにしている。根性というのは神頼みと同様になりかねないという懸念から、自分ではあえて禁じ手扱としている。私見だけど歴史的にも、実際の経験からしても「根性」を前面に出すような指導者はろくな奴がいないと思う。

<参考リンク>
・ドイツの教師 校外で煙草吸う生徒目撃しても注意しない理由
 http://www.news-postseven.com/archives/20130210_170585.html

・今回はアブラハムのお話 ...ユダヤ教の生贄に関するエピソード
 http://www.com-st.com/kling/materials/tsusin_14.html

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