2014年9月21日日曜日

葬儀の意義、さらにはパッと見に意味がなさそうなものについて

 少し前に祖母の法事に行った時に、あらためて「葬儀」というものは死んだ者のためではなく、残されたものの為にあるものだなと思った。私はあまり葬儀に立ち会うことが多くないので、こういった事を考える事もあまりないのだが、せっかくなので、そこで色々と考えた事を書いておこうとおもう。


 ちなみに、まず前提として私の宗教観やスタンスを述べると、私はクリスチャン(キリスト教カトリック)の家で育った元クリスチャンである。元というのは、現在はまったく教会に通うとか祈るとかはなく宗教的な活動を一切していないからだ。かといって無神論者というわけでもなく、宗教観を持ち合わせていないわけではない。

 じゃあ、どういった考えを持っているのかというと、私の考えは「神」とは本来は人々が「未知」に対して敬意を払う為につけた呼び名のようなものだと思っている。だからもう少し突っ込んで言えば、この世界の法則(物理といっていいのか分からないが)そういった諸々がいわば「神」だと考えていて、ひいては「擬人化された神」は存在しないと思っている。
 だから神はいないというよりも、神(法則)は存在し、宗教というのはその一面を見た人々があたかもそれをユダヤの神だのキリストだのイスラムだのとそれぞれに異なる名を付けたものと考えている。つまりは「群盲象を評す」(あたかも盲人が象のそれぞれの場所にふれて、それぞれ異なった説明を行う)ようなものだと考えている。

 なので、身もふたもない言い方をすると、宗教というものは人々が勝手に「神(未知/法則)」に対して名前を付けてつくりだしたものであり、所詮は人々がかってに言っているだけのものだと思っている。だから私は宗教そのものは信じてないが、しかし未知の物事に対する敬意を払うという意味では、神を否定はしていないという立場である。


 それで、結局は祖母の法事でどんな事をおもったかというと、私はずっと前から葬儀(仏式は特に)戒名だの初7日だの49日だのと、かってに坊主が作り出した良く解らないルールに従わされるのが面倒だし、ばかばかしいと思っていた。
 なぜかと言えば、葬儀の細々ルールというものがもろもろあるが、おおもとの開祖にあたるブッダとはまったく関係のないのがあきらかな事ばかりで、いかにも後世の人間が勝手に作ったのが見え見えだったからだ。まあ、これは仏教が悪いわけではなく、歴史ある宗教は全て似たようなものだと思う。仮にキリストが現在に登場したら、なんで勝手に面倒なルールだのなんだのを拵えて世界をややこしくしている事にあきれ返るだろう。
 なので、私はずっと長い間葬儀とかのもろもろシキタリというのが腹立たしかった。意味ないのもあるし、まったく本質的ではないので、まじめに宗教的に考えたらなおのことやる気がしなくなる代物だと思っていた。

 だが最近、実際に祖母の葬儀だの法事をやっているうちに、諸々の手続き(仏式)が、「亡くなった人のためではなく」「残された人々の為にある」と考えれば、優れて意義のあるものだと思うようになった。

 そもそも本質的に考えれば、死んだ人間に葬儀は必要ない。だが残された者には「儀式」は必要だ。親しかった人が亡くなった事を受け入れ、さらには亡くなったあとの生活を考えなければいけない。だが、それは時には難しい事なので、なかには亡くしたショックから中々立ち直れずに、一人孤立してしまう人もいるかもしれない。
 だが仏式の葬儀の場合、死後の処々のシキタリで縁者が亡くなってから7日、49日、一周忌、3周忌等の定期的に人があつまる。それは孤立しそうな人を勇気づけたり、支援したりするとても良い機会を提供している。それは、最初から狙って作ったのかどうか解らないが、ある意味でとても良い仕組みではないかと思う。

<補足>
・出典は忘れたが確かブッダのエピソードにて、次のようなものがあった。
 弟子がブッダに、バラモン教徒が葬儀で色々な祈りを唱える事の意義を質問した。するとブッダが「バラモンがいくら祈ったところで池に沈んだ石が水面に浮かぶことはない。死後の運命を決めるのは、あくまでも当人のカルマによる・・・」と答えたという。つまりは、ブッダはもともと葬儀で祈るような事をまったく念頭に置いてないし、それに対して宗教的な意義も認めてはいないのである。まあ、当たり前と言えば当たり前であり、これはオリジナルのキリスト自身の語録でも同様である。

・ただし、現存仏教の戒名を金で差をつけるようなやり方は、あまりにも金に汚い世俗的なルールで、さすがにこれは要らないだろうと思う。また7日、49日、一周忌、3周忌等のルールは、昔の親族が身近な場所に住んでいる事を暗黙の前提として想定しているルールのように思う。近代のように核家族で、あっちこっちに散らばって暮らしている世界では、おそらくはこの点を現状に合わせてカスタマイズする必要もあるのだと思う。


 こんな事を考えながら思ったのは、この世には一見すると無駄で意味が無いように見えるが、実は大きく意味があるようなものがけっこうあるという事だ。

 子供の時に聞いた話でとても印象に残っていて今でも思い出すのは、アメリカのプレーリードッグの事である。プレーリードッグはもともとアメリカ大陸にたくさん住んでいたネズミの仲間で、地面にモグラのような穴を作って住んでいた。だがある時からは害獣として多く殺された為に現在は限られた場所にしかいない。害獣とされた理由は、放牧しているときに牛や馬が時折、プレーリードッグが掘った穴に足を取られて骨折する事があったからだ。だが実際にプレーリードッグを駆除すると、それまでは牧草地として利用できていた草原が徐々に干からびる現象が起きて、かえって放牧のダメージになった。
 実はプレーリードッグが掘る穴や、彼らのふんなどは、地面を耕す役割を担っていて草原を支える役割をしていたのである。この為に、プレーリードッグを駆除した場所の中には砂漠化したところもあると聞く。

 また、こんな話もある。現在はクリーンな生活が進んで寄生虫に人が侵される事はほとんどなくなった。だが同時にクリーンな社会になってから新たに増えた病気もある、それがアトピー皮膚炎やアレルギー疾患である。一説にはこれらの原因は、寄生虫を駆除した事によるものであり、理由は寄生虫が持っていた固有のバクテリアなどが消失した事による影響だとも聞く。

 何も科学だけの世界ではなく、システム開発をしているうえではこういった話は日常茶飯事である。古いシステムを切り替えた際に、不要と思っていた仕組みが実は隠れた大きな意味を持っていた等々だ。似たような話はいくらでもあげられる。
 そして、こういった思考が「複雑な世界を、複雑なまま理解しようとする」試みなのだが、残念な事に世間にはほとんど浸透していないような気がする。


<参考>
・9―群盲、象をなでる
 http://ayur-indo.com/indo/eichi/eichi9.htm

・オグロプレー リードッグ Black-tailed Prairie Dog
 http://animals.main.jp/mammals/black_tailed_prairie_dog001.html

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