2014年10月26日日曜日

知性が信頼されない時代

 最近教育関係について2つの気になるトピックがあった。1つめは「国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革“」という記事で、どうやら安倍政権は大学から文学部を廃止してもっと企業ニーズにあった人材カリキュラムに見直そうと考えているらしいという話。そして2つめは「吉村哲彦の高齢者蔑視と生涯学習蔑視」で、年を取った人間の学習など無意味であるという大学教授のコメントである。

 私は、そのニュースをみた瞬間に何かが「カチン」ときて、ぜひ反論を書こうと考えていたが、少しまえに「生涯学習の公共的意義について/人類応援ブログ」にてこれ以上ないぐらいの完璧な反論が書かれていたのでこの点についてのコメントを止める事にした。代わりにちょっと違う視点で関連する話題を書いてみようと思う。

 テーマは「知性が信頼されなくなったという現象」についてである。

 「知性が信頼されなくなった」とはどういうことか、これは最初にあげた2つのトピックを次のように読み解いた場合に見えてくることである。安倍総理の場合は、おそらく「文系的な知識や教養的なもの」は金を稼ぐには役に立たない、よって不要だと考えたのだろうし、吉村教授の場合は、「なんらかの功績を残せないような知的活動」は価値がないと考えたのだろう。

 これはパッと見はもっともらしく聞こえる意見である。だが、非常に短絡的な意見であり大きな誤解をまねている。そもそも上記の二人がさしている知性はあまりにも限られた狭い話だけをしている。そもそもこの世には何の意味があるか解らない物が沢山あって、実はそれらの中にとんでもなく重要な事柄が秘められている可能性をまったく考慮できていない。

 分かり易い例を言うと、この世の優れた発明は大発見、ひいてはそれを行った天才達というのは、大抵は最初は認められなかった。理解されずに馬鹿にされたものだ。アインシュタインいわく「一見して馬鹿げていないアイデアは見込みがない」というぐらいである。よってもしも安倍総理が言うような改革を行ったとしたら、よりいっそう日本からはイノベーションが起こりにくくなるだろう。

 それに、そもそも教育というのは結果が出るのに非常に時間がかかる。10年、20年、あるいは数十年後になってようやく結果が出るようなことだってあるだろう。そんな分野の話を、目先の都合で選ぼうというのはまさに馬鹿げた話である。

 これらはどちらかと言えば「知性が何かを解ってない」という問題と言えるだろう。



 ではテーマの「知性が信頼されない時代」とは何かと言うと、最近の大学事情や就活事情の話を目にするたびに思っていたことなのだが、以下のような話をよく耳にする。
<就活事情について>
・就活に忙しくて大学で学んでいる時間があまりない
・大学での研究内容などはあまり聞かれない
・普通は答えられないと解っているトンデモ質問があった

 こういう話を聞いて思ったのは、ようするに「採用側(企業)では大学での教育(知性)というのをハナッから信用してない」ということである。なのに、採用に○○大卒とかを基準に選んでいるとは非常に矛盾である。そして採用側がこんなんだから、学生側も学問に対して価値を見いだせてなく、取りやすいものやウケのいい教科だけを選ぶようになる。この為にまさに知性に対する劣化の繰り返しをしているのだろう。

 こういった話を聞くたびに非常に馬鹿げていて無駄な話だと思う。ならばそもそも大学卒業などは最初っから意味がない。必要なのは大学に入ったというポテンシャルのみ。だったら、いっそ次のようにすればお互いに面倒が無くて良いのではないかと思う。

<大学及び採用ルール見直し案>
1)大学に合格したら、大学側は受験者に大学合格証書を渡す。
2)採用側は、大学合格証書を基準に採用する。

 このようにすれば、学生はそもそも信頼されていない大学教育を受ける手間がはぶける。採用側は今よりも若い人材を採用できる。そして、本当の意味で学問したい人間だけが大学で学べば良い。


 だが根本的な問題を言えば、もっと多くの人は「知性」が何かを理解するべきだし、そして「知性」に敬意を払うべきだ。だが私はこれをアカデミックなものに対して言っているわけではない。そもそも本質的な「知性=教養」というものは必ずしも大学で学ぶものでもない。

 例えば、近所に八百屋の親父がいたとする。この親父は八百屋で単に仕入れた野菜をうるだけの行為に疑問を抱いて、野菜の製造過程に着目して考えるようになった、そうしているうちにさらに疑問が湧いてきて近代化する前の農業の手法や思想およびその文化的な意義は何だったのかといった事まで考えるようになった。
 こういったものが本来の「知性=教養」である。学校へ行くか行かないかは問題ない。年齢も場所も職業なども関係ない。ただ一つ重要なのは「自分の頭で考えて答えを出す事」である。

 逆に言えば、自分の頭で考えてない人間はどれだけ知識量があったところでさほど役には立たない。そんな人間は何万人いたところで、おそらく大した意味はない。

 そして、最初に何故に安倍総理のニュースにカチンときたかと言うと、

「おまえ、絶対に自分の頭で物事考えたことないだろう」と言いたくなるからである。

 同時に、こういった馬鹿な意見を放置する、さらにはこういった考えを吹き込む人達がこの国の上層を占めているという事実を想像すると、もはや絶望しか無いような気がしてくる・・・。


<参考リンク>
国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革“

吉村哲彦の高齢者蔑視と生涯学習蔑視

生涯学習の公共的意義について

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