2015年10月12日月曜日

音楽と詩の関係

 最近はほぼずっとボカロによる作曲ばかりをやっているが、過去には小説を書こうと四苦八苦していた時期もあった。いまでは文字を書くと言えばこのブログぐらいだが、自作曲の歌詞だけは全て自分で書いている。
 小説も歌詞も簡単に見えて、いざ試してみると産みの苦しみで四苦八苦したり、時にはそもそも詩とは何なのかなどという根本的な事がふと気になる時もある。そこで今回は普段ぼんやりと考えている歌詞と曲についての考察や想いについて改めて書いてみる事にした。


1.音楽は完成品であり、詩は未完成品である
 「詩は未完成品」である。言い換えれば「言葉」は常に未完成品である。そんな風に考えた事がある。それは私の体験による直感だ。

 子供のころに文学少年だった私は、ずっと不思議に思っていた事があった。それは海外の古典文学、あるいは日本でも大正時代の小説で主人公が詩集を読みふけったり、詩について議論したというエピソードが多くあることだ。
 なぜかと言うと、私は「小説」を楽しんで読むことができたが、「詩集」というのは何度読んでも良さが理解できなかったからだ。なので過去の人がどうしてあれほどに詩に熱狂したのかがどうしても理解できないでいた。

 その理由が解ったのは、一時期「ムーンライダース」にはまっていたときだった。ムーンライダース詩集というが発売されて買って読んだのだが、どうしても本だと「ふ~ん」と思うだけで良いと思えない。でも曲として聞くと同じ詩でも心に響いて感銘を受ける。そこで私は「歌詞(曲とセット)は理解できるが、詩だけだと理解できない」という事に気が付いた。そして理由を考えるようになった。

 そこで私がたどり着いたのは次のような答えだった。

「そもそも言葉は未完成なものであり、真に完成するのは実際に言葉を発した時(ライブ)においてである」

 思い起こせば、詩の朗読会というのはライブである。朗読者が登場人物になりきったかのように演じるそれは独り劇といっても良いものであり、まさしくライブである。それに比べて書物の中の詩は肉体を伴わないただの文字でしかない。
 例えば日本の古典である短歌などもそうだ。これはもともと歌会(ライブ)でリアルタイムに答えていた歌そのものである。本来の姿は書物に書かれた文字ではない。

 つまり「文字で書かれた言葉」は植物の種のようなものであって、それだけでは何も示さない。だが土地(聞き手の心の中)で芽を出して初めて意味が生じるのである。これは重要な事を示唆する。それは、同じ言葉であっても聞き手に育つ結果が異なるということだ。痩せた土地では種は目を出さないかもしれないし、あるいは実らないかもしれない。言葉というのは極めて顕著にその差を表す。

 それに比べると音楽はずっと完成品に近い。直接感覚として肉体に伝える要素が大きい、つまりは生々しいものであり、聞き手にダイレクトに情報を伝える。
 なお私は自分の体験でそれを実感した事がある。ずっと昔に自分が作った音楽テープを10年ぐらいして聞いた際、当時の想いが非常に鮮明に生々しく思いおこされて驚いた事だ。それは日記を読み返すようなものではなく、もっとリアルに、昨日あった出来事かのごとく肉体的な情報として思い出されたからだった。


2.歌詞とは何なのか
 1.で述べたように私は歌詞を読んで描く事はできない。これは私が曲先でしか作れない事を意味している。自作曲を作る際にはまず曲を作って、後から詩をつけるのが私の基本であって逆はない。たまに同時があるが、これは詩に初めからメロディがついている状態なので、いわゆる曲先と同じ意味となる。

 でも世の中には、詩先でないと曲が作れない人も多い。こういう人に聞くと、まず具体的な詩がないとそれに乗せるメロディーを考えにくいのだそうだ。これは別にどっちが偉いかとかいう話ではないが、あるいは詩先の方が昔なじみの歌会みたいなライブには向いているのかもしれない。

 テキストとしての詩は種のようなものである。これは私の持論なのだけど、でも世間ではそんな意識やこだわりはあまりないように思う。例えばピアプロの歌詞投稿だ。
 具体的な曲向けに作られたものは別として、「どっかで使ってね」的な単独での詩を多く見かける。目的を持たないそれらは、まだ種にすらなっていないテキストの仮置き場にしか見えない。
 ならば、私はむしろ「詩」そのものとしてもっと完成を目指して欲しいと思う。圧倒的に言葉を再現させるための情報や意志が不足している。もっと自由で手段を選ばなくてもいいのじゃないかとおもう。例えばイラストを添付やリンクするものありだし、あるいは既存の絵や映画をイメージにして表現しようとした世界を説明するのも良いかもしれない。


3.私にとっての歌詞
 ちなみに私にとっての歌詞は音楽をフォローするもので、こだわりはあるけど、そんなに厳密なものでもない。なんせメロディーにうまく乗らないので歌詞を英語にしてしまうぐらいだ。(英語の歌詞はほとんどがその理由による)

 実のところをいうと、私は曲そのものを始めに作れるわけではなくて、漠然としたイメージ(絵あるいは映画のワンシーン)みたいなものが頭に浮かんできて、それを表現しようとする試みが音楽や言葉である。中でも音楽はより直接的、肉体的なので好んでやっている。
 なので本当は始めっから絵をかけばよかったのかもしれないが、そのスキルもなく、何故か回りくどく曲だの物語だのを書いているわけである。

 私の場合、曲は本来表現しようとしていたイメージのBGMであり、歌詞はナレーションなのかもしれない。では絵はどうやって表現しようか? その点は楽曲として聞いた人の心の中でどう育つかに任せる事にしよう。
(まず聴いてもらえる人を探さないとダメなのだけどね・・・)


<余談>
・神経外科医オリバーサックスのエピソード
 記憶喪失になって長い間記憶が戻らなかった人が、母親の調理したクッキーの匂いで記憶が甦ったというエピソードがある。匂いは肉体に直結した記憶そのものであって、幻聴や幻覚はあっても幻嗅といった現象はほぼ無いらしい。

・マクルーハンによる考察
 詩集を理解できなくなったのは、おそらく文化や世の中が変わった影響もあると思う。過去にマクルーハン「グーテンベルグの銀河系」で、文字中心の文化がどのように人を変えたかという例が多くあった。現在風だとTVなどのビデオ中心文化は多くの人の認識を変えたのだろう。詩が音と直結しないのも、その影響ではないかと思う。

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