2015年10月25日日曜日

自分宛てのメッセージがあるという話

 私は小説も映画も音楽も、そして絵画や漫画も基本的には好きだ。ただし同時に極端な偏食家でもあって、好きだが実際に手に取ってみるのは非常に少ない。例えば漫画もかなり読んできたはずだが最近はあまり読まなくなった。時間が無いわけでもなく、お金を節約したいわけでもなく、むしろ何かを読みたいと思いながら本屋の棚を見まわすがなかなか読む本が見つからない。

 数千冊もあって読みたいの本がないのは自分でも不思議が。中にはベストセラーもあるだろうし、有名な作品や知名度に相応しい傑作もあるだろう。だがどうしてもそれらを手に取る気がしない。そんな時に私はいつも思い出す。

「これだけ沢山の作品があっても、私宛に書かれたものはないのだと」



 映画であったり音楽であったりいずれも同じだが、それらの産み出された作品には作者の想いが込められている。最近ではマーケティング云々がうるさく言われる時代だから、作者はターゲットの性別、年齢、職業、人柄などを明確にイメージしながら作っているかもしれない。そして何を訴えるべきか、どう思って欲しいかを計算して創作しているケースが多いだろう。

 それは別に悪い事ではないのかもしれない。だがそうやって多くの人が求めるように汎用性を高めたメッセージは、言い換えると純度が低くてツマラナイ場合が多い。そして確実につながるように計算して作れば、それはどうしても無難なのものになり、音楽であれば大抵はどっかで聞いたような曲になる運命だ。

 そんな作品がこの世には溢れている気がする。だから数はあっても実際には似たようなコピー作品が大半で手に取るほどの物はあまり無いような気がする。それを無意識に感じ取るから、私は数千冊の中でも読むべきものを見つけられないのだろう。

 もしも今の瞬間ならば、私は今までに見た事のない世界、感じた事のない感覚(感情)を喚起させるような作品に出合いたいと願っている。あるいはトンネルを抜けて地平の広がりを知るような感覚であるとかだ。

 だが書店での「いま売れてます」的な作品はいずれも私を退屈させる。それは、作者が私のような読者を想定していないからなのだろう。言い換えればその作品は「私宛に向けられたメッセージ」ではないという事だ。


 「自分だけに向けられたメッセージがある」という認識を明確に思うようになったのは、内田樹のエッセイを読んでからだ。エッセイの中で内田は、初めて哲学者レヴィナスについて知った時に、その難解な思想は理解できなかったが、レヴィナスが語る内容(メッセージ)は自分に向けらているものに思えて、ずっと研究をするようになったという。これはきっと明確に意識した事はなくても、多くの人が感じた事のある感覚だと思う。

 例えば私は映画館に行くのは面倒でめったには行かない。だが「アクト・オブ・キリング」という映画の存在を知った時に、是非とも行かなければならない気がしてわざわざ映画館へ足を運んだ。ちょっと不思議な感覚かもしれないが「この映画は私のような人間に見せる為に作られたものだ。だから行かなくてはならない」ように思え、むしろ行かないとサボったような気がするぐらいだった。

 時々そのような感情にかられる作品に出会う事がある、すぐに思いつくものを上げると、映画では「ハンナ・アーレント」、小説ならば「ハーモニー/伊藤計劃」、漫画なら「COCOON(コクーン)」、音楽ならば「エリック・サティ」の作品なんかがそうだ。
 これが私が作品を選ぶさいの究極の基準である。なので私は作品を売れたか売れないかなどではまったく評価していない。むしろヒットしている作品は「わざわざ私が見なくてもいいだろう。どう多くの人が見ているし」とすら思う事がある。

 例えるならば、混雑している公園で多くの話し声が聞こえる。だがそれらの話し声は私に向けられたものではなく、気にする事もない。でもそこに「ねえそこの君」みたいに私に向けて話かけられれば声の主を振り返るだろう。そうして初めてメッセージが繋がってコミュニケーションが成立する。だがそうなるには幾つか条件があるはずだ。例えば「日本語である」とか「丁重な言葉」だったり「聞き取りやすい声質」と言ったようなものだ。そういう幾つかの条件がそろって初めて、メッセージの宛先が私だと気づくのである。



 だが最近はなんだか色々な作品がツマラナイと思う事が増えたような気がする。ビジネスライクで定型的な作品が増えたのかもしれない。

 例えば私はボカロオリジナル曲を聞くのが楽しみだったが、それでもいつからか一発ネタ狙いみたいな作品が増えて、本当に作者が作りたい物を作ったと言えるようなものが少なくなった気がする。これはあたかも「作品ではなく消耗品になった」とでもいうべきかもしれない。
 そう言った作品はたとえ最初はめずらしくても、繰り返されると「ああ、いつものお約束かな」ぐらいになって何も感じなくなる。

 作家が臆病になったのかもしれない。再生が伸びない事をおそれて無難な流行のものばかりを目指しすぎるだろうか?

 ならば少しは安心して欲しい。デジタルで保存される世界では、作品はすぐにはヒットしなくてもどこかに残ってアクセスは可能な状態が続く。ならばいつか、どこかで本当にそれを聞くべき人の手に渡る時が来るかもしれない。それこそが本当に届けようとしたメッセージが持ち主に届いた瞬間となる。

 それに中には私のようにへそ曲りで、普通のメッセージはほとんど遮断しているような人間だって多少は此の世にいるのだから。例えば日本で作ってあまり伸びなかったボカロ曲が、なぜか南米で大流行りとかあるかもしれないし、もしくは後世の違った時代で評価されるかもしれないのだから。




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