2017年7月25日火曜日

汚れちまった日本語で何を語ればいいのだろう

「言語としての日本語が壊れた・・・」

 ここ少し前に何度かTwitterでこんな事をつぶやいた。もちろんこれは比喩なのだが、それでも最近はときおりこんな感覚(直感)がある。この感覚を言葉で説明するのは難しいが、今しないと後からでは書けなくなりそうな気がする。なのでこの「日本語が壊れた」あるいは「破綻した」という漠然とした予感について色々と書いて置こうと思う。


1)日本語に失われた美しさ
 日本人の私にとって日本語は空気のようなものだ。日本語のテキストをみれば無意識に脳が反応して意味を読み解くし、日本語の歌詞があれば同様に聞く気がなくても頭に入る。それだけ馴染んだ言葉なのだが、それでもふと「今の日本語は美しくない」「美しさを失ったのではないか?」と漠然と感じる事がある。最初はこの思いは単なるノスタルジーなのだと思っていた。
 しかしTwitterなどで飛び交う罵倒や嫌味な当てこすりだの嘘を見るにつれ、この醜さは何か根本的な、まるで人が退化して類人猿にでもなったかのような喪失があるんじゃないかと感じるようになった。そしてこの美しくないのが、単に言葉が時代と共に変わったわけではなく、何かが変わったあるいは失われてしまったのではないかと思えてきた。

 思い返せば似たような感覚は過去にもある。最近では「学生との対話/小林秀雄」を読んだ時だった。この本は1961-1978の間に行われた文筆家(小林秀雄)の講義及び学生との対話を記録したもので、対話のテーマは小林が行っていた本居宣長研究からベルグソンなどの哲学や信仰も含めて実にさまざまだ。ちなみに私は小林秀雄は戦前戦後を通じて著名な批評家というぐらいの知識しかなく、この本はたまたま疲れている時に気分転換として手に取っただけだった。だが読んでみてとても衝撃をうけた。一言で言うならば文章を読んで感激(しびれた)のだ。

 「しびれた」という感覚、それは日常語での「面白かった」「良かった」というのとは異なる。まさに演劇ライブで素晴らしい演技に感銘を受けたのと同じ、あるいは列車旅行で疲れてぼんやりしているときに不意に目の前に現れた壮大な景色に圧倒されて言葉を失う、そういった感覚だった。本の内容はもちろん興味深いし面白かった。だが感激というのは、むしろそんな個々のテーマ云々というより、本物の高い教養(インテリジェンス)に触れたという純粋な喜びや爽快さだ。

 本物の教養に出会う感動というのは思えば長く忘れていたものだ。たまたま優れた書籍や文に出会えなかったからだけなのだろうか? でも思い返すと過去にも何度か同じような事を考えた事がある。

 その一つは、10年以上前だと思うが「武士道/新渡戸稲造」を読んだ時だった。当時の私は著名な書物である「武士道」を一度くらいは目を通しておいてもいいだろうと考え、気楽に本を手に取った。率直に言うと100年以上も前の日本で書かれた書物なので内容的にはたいした事ないのではないかと思っていた。だが読んでみて驚いたのはそこに書かれている教養の深さだった。読んでみて新渡戸の教養の深さに圧倒されると同時に、仮に現在にでもこのような本物の教養人というものがいるのだろうかと疑問を持ったぐらいだった。

 ちなみにここで少し補足すると、私が評価をした教養とは小林秀雄や新渡戸稲造の思想や考えが正しいとか共感するとかいうような話ではない。たとえば書籍に書かれた文章あるいは思想という結果だけをみて成否を問うならば、それはあたかも書籍を単なる解答集(トレビア)とい狭い枠だけで見るようなものだ。そうではなくて感銘したのは、答えにたどり着くまでの著者の様々な考えや悩みとそれに取り組む姿勢や優美さなどを含めたむしろ道のりだ。私は手に取った書籍を通じて、時代も場所も違う著者にあたかも時空を超えてよりそうように眺めるような感覚を得る事に感激したのである。だからこの思いはいくら丁寧な内容をWikipedeaに書いても実物の本を読まなければ説明できるものではない。

 そしてそういった本物の教養というものに触れる機会はだんだんと無くなってきたように思う。これは単に出会えないというより、そういった教養というものが日本では失われつつあるのではないかとう疑念だ。

 かなり前の話だが友達と話していたときに日本語についての話題となった事がある。確かどうして日本語は曖昧な言葉ばかりが多いのかといった雑談だった。その時に友人は次のような事を言った。
『本当に昔の日本人が同じ言葉を使っていたとは思えない。なぜならば戦国時代とかのシリアスな時代をくぐるのにそんな曖昧な言葉を侍が使うとは想像できない』
 そういえば私が初めて「もののけ姫」(ジブリ映画)を見た時に、主人公のアシタカが語る言葉のシンプルさと力強さに感動したのを覚えている。アシタカが語る言葉には偽りや迷いが全くない、それゆえにとても美しかった。もうかなり前の話だが、その時にも美しい言葉は失われてしまったのだろうかと考えた事がある。

 また少し違うがこんな古い感覚がある。1980年代頃にセックスピストルズにはまっていた時に「Bodies」の歌詞(和訳)を見てとても驚いた事がある。理由はその歌詞をみてそこに教養を感じとったからだ。
 でもこれは自分でもとても意外な驚きだった。なぜならセックスピストルズ(パンクロック)は当時のイギリスで言えばクソガキが演じる野蛮な音楽であって、教養や知性などというのとは本来最も縁遠いはずのものだったからだ。まともな教育を受けたかどうかも解らないイギリスのガキの歌詞、だがそれは言葉は荒いかが確かに教養を感じさせた。それは、そこに描かれた怒りや苦悩というものが、明らかに知性があるものが感じるはずの痛みや感情だったからだ。
 そして同時に私は当時流れていた日本のロックやポップスを聞きながら、圧倒的な文化の差のようなものに打ちのめされたような思いがした。正直言って日本の大学教育を受けたインテリがこれに勝るものが書けるとは思えなかったからだ。


2)何が日本語から失われたか
 日本語から美しさが失われたと先で述べたが、では「日本語はもうダメだ壊れてきた」という感覚はどこからくるのだろうか。そもそも言葉が壊れるとはどういう事なのだろう。それは「言葉その物の意味が失う事」だと思う。

 考えてみれば当たり前の話なのだが、言葉が価値を持つのはそこに真実(信頼)があるからだ。真実が失われれば言葉は意味を失う。そして嘘をつきつづければ言葉はどんどん力を失って、やがては発したと同時に空気のように消えてなくなるようなものになる。

 これをテーマとした小説が「1984/ジョージ・オーウェル」で、そこには『二重思考』という考えが登場する。二重思考とは1つの言葉が相反する2つの意味を持つということで本音と建て前というよりは、むしろ顕在意識と無意識で相反する意味を2つ抱えているような状態を指す。これは自分で自分に嘘をつくようなものだ。嘘は本来はどこにでもあるが、でも日本ではこれが少しどころじゃなく蔓延しているように思う。

 私がそれをリアルに実感したのは3.11(2011年の東北大震災~福島原発事故)だった。震災が引き起こした前例の無い原発事故、それが引き起こす放射能汚染という見えない恐怖。だが私が本当に恐怖を感じたのは、本当は大変な事が起こっている、あるいは起こりつつあるはずなのに、テレビはあたかも何事も無かったかのようにいつもどおりバラエティ番組を流しつづけていた事だ。
 別に大騒ぎしてくれと思っていたわけではない、ただ当時はまず真実を知りたかっただけだった。だがテレビのみならば、新聞ですらも想定される被爆の危険については沈黙し、学者や知識人は根拠もなく安全だと言い続けた。現実世界はあるいは破局の一歩手前まできているのかもしれない、なのにテレビはまるで事故が起こらなかったような世界を演じ続けている。ひょっとすると全員が死に絶えて滅んだとしてもテレビは無人の街に延々と録画した番組を流し続けるのかもしれない。
 私はこの沈黙が不気味で当時テレビを見ると吐きそうになるぐらい気分が悪くなった。おかげでいまでも日本のテレビ番組は好きではない。特にバラエティ番組は嘘で凝り固まった汚物でも見せられるように思えてあまり見ない。

 だが近年はもっと深刻だ。なぜならば安倍政権が誕生してからというもの、この政権は多くの誤魔化しや嘘をまきちらし、同時に社会全体のモラルすら破壊し続けているからだ。そして現在では政府による秘密主義と独裁を推し進めてまさにオーウェルの「1984」のような国に作り変えようとしている。
 現在も安倍政権は数々の疑惑を誤魔化し続けている。だが本当にそれらの疑惑が解明される見込みは立っていない。状況的には完全にクロと言える状況だが、メディアや知識人は疑惑を解明するどころかむしろ多くは政府の嘘に加担してきたと言われてもいいような状態である。私はこれこそが最も手ひどい日本語の破壊だと思う。
 政府の言葉、知識人の言葉、メディアの言葉、それらの信頼が失われ続ければいったいどうなるのだろうか。そんな中でどうやって生きれば良いというのだ。前に国会での総理答弁書き起こしを見た事があるが内容は本当に酷い。これはもはや人から類人猿への退化どころではない。だがこれまで新聞はフォトショップで美人に加工するかのように要約(意訳)をしてあたりさわりの無い物に総理答弁を置き換え続けてきた。これこそがまさに言葉の破壊である。


3)喪失すら忘れていたもの
 さきほど近年における嘘の蔓延といった事を書いたが、でも実は嘘はもっと以前からあって何かが大きく残絶しているのではないかと思う。1つは80年代のバブル、さらに遡ると太平洋戦争の敗戦(1945)ではないかと思う。理由は現在の日本の土台となっている最も大きな嘘(二重思考)、敗戦によるアメリカの日本占領が始まるからだ。

 そう考えるきっかけはネットで色々な人の意見を目にしているうち、だんだんと世界から見たら「日本は変な国なのだろうな」という感覚が理解できるようになったからだ。長くこういうのは国民性とか文化の違いだと思っていた。でも実は今住んでいるこの国こそがある意味では「1984」だったのではないかと思えてくる。それを具体的にまとめたのが「永続敗戦論/白井聡」だが、ここには「敗戦」を「終戦」と呼び変えるような大きな嘘(二重思考)について色々と述べられている。

 だが私が最もシンプルに実感したのは、いつからか日本は「何が正しいか」ではなく「何が得か」でまず考えるようになったという事の問題だ。おそらくここが見えにくいが最も根本的に社会を卑しめている部分であって、いつからか大きく歪めてしまったのだと思う。
 理由は永続敗戦論に書かれたように二重思考で「アメリカの属国という現実」を「経済大国」だと呼び変えたるような、日本人のコンプレックスを、自分で自分に嘘をつくように誤魔化し続けている事になるのだと思う。

 そう考えれば沖縄の米軍基地の問題はまさに二重思考である。長く与党として支配してきた自民党は沖縄に米軍基地をおしつけて問題を無視しつづけてきた。そしてそれは皮肉にも保守を自任する安倍政権がもっとも顕著である。
 本物の保守ならば同胞である沖縄に住む日本人の人権を回復する為に米軍を段階的にでも縮小する方向に考えそうなものだが、安倍政権は逆にアメリカに逆らうのはけしからんとでも言うかのように沖縄に対しては冷酷である。沖縄は日本にとってはれ物であり、地位協定によるアメリカ支配という屈辱を思いだせる証なのだろう。戦後の日本人はそれらをすべて忘れるようにした。豊かにはなったかもしれないがある意味では動物園の檻の中のような世界だったのではないだろうか。

 私はこの「何が正しいか」ではなく「何が得か」で考えるという事が、最大の日本社会の堕落であり残絶だと思う。それに気が付いたのはこの前ビデオニュースで宮台真司(社会学者)が政治を行う場合は、国民に対して損得で説得するしかないと発言するのを聞いた時だった。おそらくこの考えは西洋社会では受け入れられないものだろう。

 西洋のキリスト教社会はその哲学の基礎に神への信仰がある。例え誰も見ていなくても「神」が見ていると考える、ゆえにまず考えるのは「何が正しいか」となる。ところが日本はこの一神教の考え方が無い。でもこれこそが明治時代に新渡戸稲造が「武士道」を書かなければいけなかった最大の理由であり葛藤だ。
 国際社会に日本が踏み出したばかりのころ、新渡戸は西洋人から「神」の概念がなくて日本人は何をモラルとして生きるのかと問われた。これに対する答えとして、新渡戸は日本人には一神教のような神=モラルというのは無い、だが我々には自分たちなりの独自のモラル(武士道という概念)があり野蛮人ではないと伝えるが為に「武士道」という本を書いた。
 しかしこの前に見たビデオニュースでの宮台真司の発言を聞いて、実はもう日本には「何が得か」という価値基準しかないのだとつくづく思い知らされた。もしもそうならば現在の日本社会は明治時代の新渡戸がいた頃よりも劣化した世界だという事になる。損得だけで考えて何がおかしいのか、そう聞かれて何も感じないほどに日本にはモラルが無い。

 これは私にとってはちょっとした衝撃だった。今まで生きていると思っていた日本人(日本文化)というのは、実はとうの昔に死んでいたゾンビだったと知らされたようなものだ。

 だがなかには「損得だけで考えるのは正しいじゃないか」という人もいるだろう。だがそれは大きく異なる考えだ。これは何も青臭い正義感で言っているわけではなく、現実的に考えれば中長期的に社会を運営するにはこういった理念は必ず必要になるという当たり前の指摘だ。
 理念があるからこそ人は将来に対して一貫性がある計画や行動ができる。そしてその差は必ず至る所に現れる。乱暴な言い方をすれば、単純に損得で考えるだけでは「言葉をしゃべる犬」とどう違うかという事になる。そしてもしも犬でしかないならば、いつまでも目先の状況に振り回されて堂々巡りのような事を続けるしか出来ないだろう。(これはまさに現在の安倍政権がやっている一貫性の無さを表している気がする)


4)最後に
 こうして色々と書いていると、結局のところ日本とはなんだったのだろうかという事になる。憲法改正という問題が近年言われるようになったが、それ以前にそもそも日本はまともな理念を持った事が無かったのではないかという気すらしてくる。
 モラルを放棄して、個人の損得だけを価値判断の基準として、なおかつ長らく教育では「余計な事は考えるな」とずっと子供に教え続けてきた国だ。長い時間を使って育ててきたのは「空気を読む犬」や「数学が出来る犬」ばかりだったのだろうか。
 もちろん、そう言う人ばかりではないと思う。だが特に最近やっている教育改革はまるで「数学が出来る犬」や「パソコンが使える犬」だけを効率的に育てればいいと言っているかのように聞こえる。

 いったいなんだろうな・・・という感想しかないが、私はいまだに「Bodies / Sex Pistols」で感じた文明的な差が埋まったとは思えない。むしろこうして考えると広がったような気すらする。日本とか日本人はもっと根本的な部分から考え直して出直さないとダメなんじゃなかろうか。

 例えばそういった根本理念が無いからソフトウェアのような知的産業がずっと弱いのではないのか。いい加減に「ソフトウェアは犬には組めない」と気が付いて欲しいのだが・・・。


<参考リンク>
日本の新聞は、安倍首相答弁の一言一句までの書き起こしをたまには紙面に載せるべきだ。

国際社会から「共謀罪」の危険性を指摘する声が続々! 国連特別報告者は安倍官邸の反論のインチキを完全暴露

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中原中也「汚れっちまった悲しみに……」

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