2017年8月5日土曜日

リアリティを喪失した社会 ~成熟しない永遠のロリコン文化~

「日本に住んでいると、いったい何がリアルなのかよく解らない」最近よくこういった事を感じる。

 例えば日本における貧困者はそれなりに深刻だと考えているが、かといって普段街を歩いていて明らかに貧しいと分かるような人を見かける事は少ない。表通りを歩いているだけならホームレスすら見かける事は稀だし、それなりにみんな小ぎれいな格好はしている。もう少し注意深く見れば格安品を身に着けている人が大いとか見えてくるかもしれないが、ぱっと見た目ではあまり解らない。では本当に日本は豊かで貧困問題はないのかと言えば、もちろんそんな事はない。貧困問題は確かにあるし困っている人もいる。ただそれらがひじょうに見えにくくなっている。

 もしも私がテレビでずっとバラエティ番組だけを見ていたとしたら、おそらく貧困問題が日本にあるなんて夢にも思わないだろう。問題が実在しても、それを知る人がいなければ認識すらされない。だが認識されなかったとしても、問題そのものが消えて無くなるわけではない。

 最初に述べたリアルがよく解らないというのは、本来あるべきはずの問題が隠されているという感覚だ。しばらく前に「“日本すごい!”系バラエティ批判」という話題があったが、最近はメディアの偏りが酷くなってきて、徐々に現実感が無くなっていくように感じる事がある。うまく説明しずらいテーマなのだが今回はこの件について書いてみる。


1)誤りを受け入れない文化
 そう言えばずっと昔(おそらく80年代ぐらい)に友達が話した事がある。
「日本では死が表にでてこない。例えばアジアの街では道端に死体が転がっているが珍しくない場所もあるのに、日本では猫の死骸ですらすぐにかたずけて無かった事になる」つまりは、汚れ(穢れ)をすぐに隠そうとすることに異常なくらいに潔癖なのではないかという話題だった。
 あの時に友人と話したのは「死」というテーマだったが、今にして思うと『この異常なまでの潔癖さ』は習性といえるぐらい至る所にあるような気がする。

 例えば仕事上で課題が発生したときに現れる。何か問題があった場合、私の基本的なスタンスは『どこにだって課題はあるしあるのはしょうがないのだから、なるべくオープンにして早めに議論をするべき』というものだ。だがそうではなく『いやあそれはちょっとまずいから』あるいは『タイミングを考えて』とか言って、課題を隠すか後回しにしようとする人も多い。
 私にはこれは担当者個人の問題というよりも、そもそも日本には物事を隠そうとする(誤りが存在しなかったかのように振舞う)習慣というものがあるように思う。つまりはあって当たり前の問題を受け入れず、むしろ問題があれば直ちにそれで誰かを糾弾しようとするような行動だ。

 例えばイジメの問題で学校側の隠ぺいが暴露されて批判されるケースがよくある。これはおそらくイジメを公開して対処しようとしても、すぐに責任論になって肝心の対策の話がまともに出来ない事が多いからだろう。あるいは逆に何か改善案を出そうとすると言い出しっぺに押し付けようとするので、誰も言い出さないという事もよくある。
 これらは全て極めて幼稚な行為でまともな教養人からすると馬鹿げているのだろうが、わりと日本では普通にある。それどころか「誤りを認めない(受け入れられない)」だけではなく、「誤りがあってはならない(異様な潔癖さ)」という発展形だって珍しくはない。

 例えばここ数年の話だが、大手メーカーで古いソフトウェアの刷新検討で打ち合わせをした際に、IT部門のマネージャーから「うちはアジャイル開発的なものを認めず、ウォータフォール開発手法一本でやります」と言われてあっけにとられた事がある。
 少し解説すると「ウォーターフォール開発」とは最初に完璧な設計書をつくってあとはそれにしたがってプログラムを作るという考え方で1980年代はこれがメインだった。だがこの方法が成功するには『最初に完璧な設計書が作れる』というのが成り立つことが前提で、それゆえに複雑なシステムや多様な変化を受け入れざるを得ないソフトウェア開発には向かない。
 この為に最近の複雑なシステム開発では一気に完成品を設計するのではなくて、ラフスケッチのような設計+プログラムを作って事前に評価して再設計するなどの色々な工夫が行われるようになった。
 なので大手メーカーのマネージャーが旧式の開発方針(誤りゼロの設計ができる前提)が当たり前で、それしか認めないというのを聞いて私はとても驚いたし、同時にがっかりもした。
(大手メーカーですらこれだから日本がソフトウェア後進国になるんだよと心の中で思った)
 しかもこれが無学とか無教養な人が言うのではなく、高度な教育をされた人間が言うところに日本の特殊性があるような気がする。ひょっとすると高学歴の方が顕著かもしれない。
 誤りを減らそうとするのは美徳だが、誤りが存在しなかったかのように隠すのは悪徳(もはや病)である。

 この病はなかなかにやっかいで物事が上り調子の時には問題は見えてこないが、いったん落ち目になると歯止めが効かなくなるのでどうしようも無くなる。そもそも落ち目になってから復活するには問題に対処するしかないが、その前提としていま現実に起こっている問題をまず受け入れなければならない。なので問題の存在すら拒否(逃避)しているようではそもそも解決しようがないし、むしろ逆に妄想でさらに現実を覆い隠してゆく事になる。いわゆる「クロをシロ」と言いくるめる事だが、いったんこれを始めるたら嘘が破綻しないようにどんどんと拡張していっていずれわけが解らなくなる。


2)リアリティの喪失
 海外の事に詳しくないので比較はできないのだけども、それでも私は最近の日本社会はちょっと異常なのではないかと思う。嘘と虚構が蔓延しすぎてもはや何が現実なのかよく解らない。そしてその虚構の代表が安倍政権である。加計学園の問題は致命的な汚職問題だし、経済政策は外交政策などについても問題が多い。というかもはや問題を語る事につかれて、誰か評価する部分を教えて欲しいと思うぐらいだ。しかしこの歴代最悪ともいえる政権が長期政権であるというのがまさに日本がまともでない証だと考える。(いずれ歴史がどうしようもない結果を示すだろうが・・・)

 だが何よりも問題なのは政権ではなく、これだけデタラメ行動が正しくメディアで伝えられない事だ。それどころか大部分の主要メディアは忖度して、この政権を支えてすらきた。このためにテレビで伝えられる日本のニュースはあたかも、別世界の物語でも聞かされるかのようにリアリティがない。
 実のところ私はこのメディアを見るのに耐えられなくなって、ほとんどテレビを見なくなった。新聞すらあまり見なくなった。もちろんネットを通じて色々と意見や記事をみるので世間から隔絶されているわけではない。ただし結果として世間一般の世論とはだいぶかけ離れた視点や感覚で世の中を見ていると思う。
 これは自分でも過剰なメディア不信だと思う。だがある意味では合理的だ。スポンサーや政府に忖度して当たり障りのないニュースだけしか流さないメディアにはそもそも情報ソースとしての価値がない。例えばどうでもいいゴシップは幾らでも載せるが、重要な政策や危機については書かない新聞があったとする・・・そんな物を読んだところで何の役にも立ちはしない。
むしろ判断を誤らせる害となるだろう。しかしその結果、昔同様にテレビやニュースを見ている人たちとの現実認識でかなり差異が出ているようだ。

 それを実感したのは、この前に友達とオリンピックの話していた時だった。実のところ私自身は東京オリンピックはその始めの経緯からして問題が多く、オリンピックの名のもとに数々のデタラメや横暴が行われるのを見るに堪えなくて今でも中止して欲しいと思っている。だが友達はそんなオリンピックの負の側面などは考えた事がなくて、オリンピックで話題になるのは、見に行くかどうかとか、せっかくだから何かボランティアでもしようかという話ばかりだった。
 これは本当に分かり易くもの凄いギャップだった。とても同じ国に住んでいる人間同士と思えないぐらいだ。でもこれは今の時代では珍しい事では無く、当たり前のことなのだろう。どっちが正しいかよりも、それぐらいに情報が混線していて各自の考え方が分断されているという事にあらためて驚く。まるでパラレルワールドだ。そして次の疑問が頭をよぎる。

「誰が本当の事を言っているのか、あるいはどこを探せば正しい情報が手にはいるのか?」

 もう既にネットでさえもフェイクが至る所に溢れすぎていて訳が解らない。そう言えば誰かが製品の評価を知ろうとネットで検索したら、出てくるのはほとんど製品の宣伝記事ばかりでうんざりしたという話題があった。広告にカウンター記事、さらに攪乱を意図したフェイク、誤解で誤った情報をたれ流す人まで・・・あまりに情報が多すぎて、普通の人のまっとうな意見を探そうとするのは難しい。
 フェイクと言えば、この前にネットで日本が太平洋戦争で敗北した事を知らない学生がいるという話を聞いたが、それもあり得ない話ではないと思う。

 フェイク記事の問題は他国でもあるが日本の場合はなんだか「フェイクをフェイクと知りつつ受け入れてる」というような本音と建て前文化的な屈折もありそうで、もうちょっと歪だと思う。結果としては知識人までがフェイクを持ち上げたり流したりしている ~ さらにはそれが日常化していつしか「ミイラ取りがミイラになる」ような事が現実に起こっている気がする。つまりは「狂人のふりをしているうちに本当に狂人になった人達」が多いのではないかという疑念だ。

 そうでなければいくら右傾化したとしても、いま進めている自民党の憲法改正案のようなあまりに酷い野蛮な議論などは、まともな人間ではありえないと思う。彼らの人権を制約しようとか民主主義そのものを憎んでいるかのような発言は野蛮としか言いようがない。だがそんな意見が与党内で大した反論もなく進められているのが現実だ。まともな良識があれば共謀罪などのような国家的な汚点になるような法案を通すなどは本来ありえない。

 彼ら与党政治家の無責任さと幼稚さ、それに恥知らずさは度を越している。だがそれ以上に問題なのはやはりメディアだ。主要メディアの大部分は法案が通るまでは問題点についてあまり言及せず、法案が通ってからアリバイづくりのように問題点を報じ始めた。こんな変な国はさすがに他ではないんじゃないかと思う。


3)成熟しない文化
 リアリティの喪失は日本固有ではないが、それでも日本は一線を超えていてなんからの文化的な崩壊現象を引き起こすのではなないかと思う事がある。それぐらいにもの凄くアンバランスで嘘と現実が混在している。それを実感したのが最近話題となっている北朝鮮の核危機だ。
 北朝鮮問題で各国間に緊張が高まるなか、日本政府の対応はなんだかよく解らないチグハグなものだった。おそらく世界的に見れば浮いていたのだろうし、国内からすると酔っ払いが威勢のいいことを言うぐらいにいい加減なものだった。

 まず戦争発生を警戒して近隣の中国・韓国が慎重な対応を訴えるなか安倍総理だけが強硬な意見をだしていた。普通ならば韓国などと同様に、トランプ政権がアメリカ本土攻撃ができない今のうちにと強硬手段をとっていきなり北朝鮮を攻撃~反撃で自国の都市に大打撃~みたいな事を懸念するはずなのに、まるで安倍総理はトランプ大統領と同じ立場かむしろそれ以上に強硬な態度を見せていたように思う。(思わず、アメリカと日本じゃ危機の意味も立場も違うだろうと突っ込みたくなるぐらいに)

 さらに総理の危機対策やってます感をだす為の行動もよく解らないものだった。重要施設もなく最もミサイルが飛んでこないような地方の農村でミサイル避難訓練をやらせた。(都市での対策というのは聞いた事がないのに)かと思えばそうやって危機感をあおったうえで花見や外遊をしているという矛盾に満ちたものだった。
 真面目に攻撃に備えるならば、狙われる危険の無い地方での避難訓練などやらずにもっとすべきことがあるはずだ。例えば原子力施設破壊に備えて近隣にヨウ素剤を配布しておくとかなど。だがそういったたぐいの話題すら聞いた事が無い。

 でもこれに変じゃないかという壮大な突っ込みが無いところが日本人のおかしなところである。関連して思いだしたのが、前にフジロックフェスティバルにSEALDsが出た時に、音楽に政治を持ち込むなという声が多数あった件だ。だがこれは本来おかしな話だ。音楽に関わらず芸術などで何かをありのままに表現しようとすれば、そこで政治だけを避けて通るなどという事は本来できるはずがない。表現するテーマによっては政治、宗教、戦争、差別や貧困だのという諸々に向き合わなければならない事がある。なのにそれを避けてとか、それを入れないでとか言う事はおかしい。そもそもそのような反論は本来はとても恥ずかしい事なのだ。何故ならばそういうのは、あたかも自分は難しい事は解らないお子様だからと宣言するようなものだからだ。
 だがそれすら解らない程に日本の音楽カルチャーというのは未成熟なのだろう。新聞やテレビと同様に当たり障りのない口当たりの良いテーマばかりを選んでいる。またAKBなどのアイドルビジネスなどはもはや音楽などは二の次になっている。これでは文化として成熟しようがない。

 成熟のしない文化、それは言い換えれば永遠のロリコン文化なのかもしれない。もう私が物心ついた頃から、日本は当たり障りの無さを貴ぶみたいな国だった。例えば政治と宗教の話はタブーでかなり親しい間でもあまり話をしない。そんな風に議論をさけ成熟をさける社会のせいか文化や表現が古典を除いてどんどんと薄っぺらくなるような気がする。誰もがぶつかる深遠なテーマをずっとさけ続けていけば、作る物は必然的に子供向けにならざるを得ない。

 そう考えれば戦後の日本そのものがある意味では箱庭であり、子供が成長せずに永遠に素直である事を願って作られた社会なのかもしれない。ゆえに深遠なテーマを避け、ただ子供のように当たり障りのない遊びだけをしつづけている。

<参考資料>
東京は世界有数の安全都市→五輪「共謀罪」ないと開けぬ 首相の招致演説「ファクトチェック」

オリンピックはいつからそんなエラくなったの?~アスリートファーストではなく社会ファーストで

自民党の憲法改憲草案は一体何が問題?わかりやすく解説!

「フジロックに政治を持ち込むな」に、アジカンの後藤正文さんら反論

厚切りジェイソン、“日本すごい!”系バラエティ批判に賛否両論…真の問題点とは?

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