2018年11月1日木曜日

指導要領の「論理国語」「文学国語」が示すもの 〜自然言語の二つの役割〜

1.はじめに
 ときどきネットで耳にする学習指導要領の改訂(「論理国語」「文学国語」という分類)だが、話を聞くたびにモヤモヤとした違和感を感じ、そのくせ言葉にできずという思いを抱えていた。なんだかオカシイという思いはするが、どうオカシイかをうまく言葉にできない。だがようやく最近は自分の中でその問題点や疑問点が整理できてきた。なのでちょっと今回はざっくりと私が考える問題点や疑問点について書いてみることにする。


2.まず学習指導要領等の改善内容とは
 学習指導要領によれば高校の国語教科が次のように細分化されて再編成されるらしい。
<高校の科目変更>
・現行)「国語総合」 、任意:「国語表現」「現代文A」「現代文B」「古典A」「古典B」
・新規)「現代の国語」、任意:「言語文化」「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」

<新規の内訳(概要)>
・「現代の国語」…実社会・実生活に生きて働く国語の能力を育成する。
・「言語文化」 …上代(万葉集の歌が詠まれた時代)から近現代につながる我が国の言語文化への理解を深める。
・「論理国語」 …多様な文章等を多面的・多角的に理解し、創造的に思考して自分の考えを形成し、論理的に表現する能力を育成する。
・「文学国語」 …小説、随筆、詩歌、脚本等に描かれた人物の心情や情景、表現の仕方等を読み味わい評価するとともに、それらの創作に関わる能力を育成する。
・「国語表現」 …表現の特徴や効果を理解した上で、自分の思いや考えをまとめ、適切かつ効果的に表現して他者と伝え合う能力を育成する。
・「古典探究」 …古典を主体的に読み深めることを通して、自分と自分を取り巻く社会にとっての古典の意義や価値について探究する。


3.新要領の何に違和感を感じるのか?
 ネットでよく話題になるのは新要領の「論理国語」と「文学国語」という分け方である。従来は必須に含まれてた文学国語的な要素が、新案では任意になるので選択不要になる。そのことについて多くの人が直感的に違和感やショックを感じたようだ。(ちなにみ私もその1人)

 これは確かに私も初めて聞いた時に何かショックを受けた。でも改めていま考るとショックを受けた理由は、教育要領そのものよりも従来の政治や社会情勢から来る感覚的な反応だったような気がする。(もしもこの話を20年前に聞いたら「ふ〜ん」と思っただけかもしれない)
 だが今だからこそショックを受けた。その理由は近年の文系軽視や理系尊重という流れと、教育勅語を復活させよう的な話題が出るほどの右寄りして硬直しつつある社会情勢のせいだ。この近年の文系軽視は私からすれば「教養の軽視」だと考えてきた。そして大学改革の中で実学重視と言いながら企業による社員教育の肩代わりを大学にさせようとするおかしな流れに危機感を持っていた。

 だからこそ今回の「論理国語」と「文学国語」というのもショックを受けた。
 ・「論理国語」 → 実学、企業向けの前段階研修的なもの
 ・「文学国語」 → 教養、趣味的な物であってもなくても良いもの
 つまりは上記のような考えで、これも今までの文系軽視の流れの一つではないかと直感したからだ。

 でもその実学重視、教養軽視という風潮の何がやばいのだろう?

 なんとなく人間性軽視で金銭や効率重視というイメージは漠然とある。それと言語というものを最近はあまりにも道具として軽視しすぎている、言い換えるとその影響力や力を舐めているという感覚もあった。だがどうも言葉に出来なくてヤバイ気はしているものの説明出来ないもどかしさでモヤモヤしていた。


4.自然言語(日常言語)の持つ役割と機能
 だがこの漠然としたモヤモヤがコンピューターシステムに例える事でやっと理解できた。
 つまり自然言語というのはそもそも二つの役割があって、その一つは相手とのコミニュケーション(意思疎通)であってコンピュータの世界で例えるならば外部インターフェイス(又は通信プロトコル)のようなものである。そして論理国語というのはまさにこれで、他者との論理的なコミュニケーションをどう正確に効率よく行うかを学ぼうという試みだと思う。それ自体は問題ではないし重要なことだ。
 だが自然言語の役割はそれだけではない。私たちは言語によって考えたり感じたりする。普段は意識していないが言語は私たち自身を常に再構成する要素でもあるのだ。例えるならばコンピューターのOSに相当する。

 話を解りやすくする為に乱暴なのを承知でまとめると次のようになる。
<自然言語の役割>
1)通信:会話や文章で外部とのコミュニケーションを行う
 学習指導要領=現在の国語、論理国語

2)OS  :自身そのものを構成する。あらゆる思考活動や感覚の感情の基礎。
 学習指導要領=その他もろもろ(言語文化、文学国語、国語表現、古典探求)

 つまりずっと感じていた違和感の正体は、みなさん自然言語の役割のうちインターフェイス(ビジネス的なもの)だけにこだわりすぎて、もっと重要な根本のOS機能(言語そのものが私たちの思想や感情を構成して左右する)部分を軽視しすぎてはいませんか? という事だったのだ。


5.「論理国語」「文学国語」という安易な分類の違和感
 有名な聖書のセリフの「はじめに言葉ありき」ではないが、言語は私たちを構成していて、なおも構成し続ける(つまり私達は言葉によって考えるがゆえに、常に言葉によって再帰的に構成される)のである。当然ながら人間というOSの中では論理的なコミュニケーション以外の部分の方が圧倒的に大きい。
 本来の文学や文系というのは、そういう人間のOSという部分をいかに構築するべきかという学問の一つではなかったかと思う。ゆえに最近の風潮はあまりにも安易でかつ近視眼的ではないかと危惧する。

 言葉は私たちの考えや感情を規定している。これをテーマにしたのが有名なジョージ・オーウェルの「1984」だ。この中では言葉の意味を置き換えて反抗の言葉を存在しなくする事で、人間をシステムに従わせる全体主義社会が描かれている。

 あるいはずっと前にこんな話を聞いたことがある。普段私たちが使う氷や雪という言葉はせいぜい呼び名が数個だが、エスキモーのように雪の世界で暮らす人たちは雪の事(状態)を数十の単語で使い分けているという。
 もしも私が彼らの中に入れば、雪という言葉数々の形に細分された世界の広がりを知るだろう。だが逆の彼らが私の所へくれば、雪がどれも似たような狭い世界に閉じ込められるように感じるだろう。(だって雪の細かい状態を説明してもついてこれる人が居ないんだもの)

 同様にもしも赤とか青とか色々な色彩に関する言葉が消滅したらどうなるだろう?(私たちの記憶や記録から消滅したら)
 世界は明るい・暗いだけで表現されたモノトーンのような世界になる。もしもそうなれば豊かな色彩を持つ絵画は存在せず、表情や自然の変化を表すような言葉も減り、嬉しいや悲しいといった感情さえも大幅に減少した世界になるかもしれない。
(だって顔を赤くした、真っ赤にして怒ったとかいう表現も出来ない。現在と比較すると欠けた世界になるのだから)

 つまりここで言いたいのは、言語や表現は私たちの発想する世界の広がりや多彩さも規定してしまうということだ。これこそが近年の文系軽視という行為に対する最大の懸念である。

 もっとはっきり言えば、文系軽視とは私たちを構成するOSをどんどんショボくするだけなのだ。

 OSがショボくなってゆくのに、インターフェースだけがリッチで高機能になる筈がない。そもそもインターフェイス出来るようなものも減ってゆくだろう。つまりビジネスだけ成功する事などあるはずがなく、逆にビジネスも文化も社会もやがては人間さえもがどんどんさびれてショボくなるだろう。つまりは退化である。


6.おわりに
 もう手遅れかもしれない。でもこの文系軽視の問題はいずれは社会に顕著な影響を与えると私は考えている。それもきっとネガティブな方向で。

 私は個々の詳細な中身、例えば「山月記」「こころ」などの著名な作品が読まれるのがけしからんとかは言うつもりはない。例えば「山月記」よりも島田雅彦の作品を読ませる方が面白いかもしれない。問題なのはそういう小さなテクニック的な部分ではなくて、もっと根本のコンセプトの部分である。

 私達はもっと言語がOSのように私達自身を再構成している、良い方向にも悪い方向にもフィードバックがかかるような性質のものだと知るべきである。そうした上で改善や多様性を考えるべきだ。

 例えば、私が考えるに英語と比較して「日本語は嘘を付くのが簡単すぎる」言語だ。なのでもっと正直で誤解がないように言語を改善したらと思う事もある。きっといろんな形で私たちの日本語そのものを、そしてその延長上の社会や文化も改善する事は理論的には可能だと思う。


<余談>
 近年あまりにも文系や言語を舐めているような風潮が多すぎる気がする。例えば英語教育もそもそもおかしいし。ちなみに機会があればどこかで書いてみたいが、私の考えでは日本の学校英語教育での最大の問題は「日本語を通して英語を理解しようとする」コンセプトだと思う。今回の話の流れにもつながるのでちょっとおまけに書く。

<英語教育の方針イメージ>
1)現在の日本式
 日本語OSの上に、日本語<>英語の変換インターフェースを載せる。
(常にOS上で、日本語<>英語という変換処理が発生する)

2)私のイメージ
 日本語OSと共存する形で、英語OSをインストールする。
(英語は英語として処理するだけなので、言語変換は行わない)

 ざっくりと書くとこんなイメージ。1)は習得が困難な上に処理負荷も高い。だって日本語と英語の全マッピングをやって常に変換をしようなんて負荷が高すぎる。実際に1)の方式ってものすごくハードルが高くてしんどいし、2)の考えの方が楽だ。それに2)の方がOSとしての世界や機能が拡張されて良い事や面白い事もおおしね。

以上

2018年6月27日水曜日

映画「万引き家族」の感想、観どころ、考えどこ

 色々と話題になって気になっていた「万引き家族」をやって観てきたので感想文を書く。少しだけどんな映画かを説明すると、これは血の繋がってない訳ありな人達(老人から子供まで)が1つ屋根の下に暮らす日常を描いたものだ。ただちょっと従来のストーリーと違うのは、この映画では貧困や社会の矛盾というものがややコメディタッチでありながらも比較的リアルに描かれているという事だ。そして、まさにタイトルどおり親子で揃って生活用品を万引きするようなシーンもある。

 ちなみに私は、映画を見た人の為ではなく、これから見る人の事を想定して常に書く事にしている。なのでネタバレ的なことはここでは触れない。そしてできるならば他の人の批判や批評なども極力目にしないで、なるだけ先入観のない状態で映画を見て欲しい。この映画をみて各自がどう感じるのか何を考えるのか? 正直言って私には想像つかない。でもそれゆえに見る価値はあると思う。


 ちなみに私の感想はこうだ。

 「正直いって良くわからねぇ?」

 いやもちろん別にストーリーが分からないという訳ではない。そうではなく監督がこの映画で何を伝えようとしたのか、何を表現しようとしたのかがもうひとつピント来なかった。そして分からないからこそ、今こうやって文章にしながら私は自分の考えを整理しているのである。

 誤解が無いようにまず述べると「この映画はよく分からなかった」というのはこの映画をダメだと批判しているわけではない。過去にも同様によく分からないけど、もっと多くの人に見て欲しいと思った作品だっていくつもある。

 例えば直近でそう感じたのは「この世界の片隅に」だ。あの映画は内容的にも技術的にもとても優れた作品だと私は思う。だがそれでも私はあの映画で作者が何を伝えたかったのかがよく分からなかった。そしてその何かモヤモヤした感覚があったので、映画を見終わった後に原作「こうの史代」の漫画も読んで見た。でも余計に分からなくなっただけだった。
 でもそれは悪い事ではないのだと私は思う。あの時に感じたモヤモヤはきっと何かが形に(言葉に)なりそうで成らなかっただけなのだと思う。それは大抵、思念が自分の枠からはみ出た時に起こる現象だ。そしてそれらはとても刺激的で楽しい体験でもある。

 他に「万引き家族」を観て思ったのは、ネット上で色々と意見があったイメージとはずいぶん違うなという感覚だ。例えば一時期に話題となって「あの映画は赤裸々な貧困を描いていて日本の恥を示している」とか逆に「いままで隠されていた社会問題を描いた」というのを聞いてたが、私はちょっと違う気がした。

 確かに登場する貧困や人々はある意味生々しくて描かれている。だが別にそれらがドキュメンタリー的に描かれているわけではなく、むしろある種のメタファーやブラックジョークのような形で示されている。それらはおそらくこれらの要素があくまでもこの映画の味付けであって、本質ではない事を示しているのだと思う。

 私はむしろこの映画で表現しようとしたテーマは、貧困とか虐待とかある意味で極限状態におかれた人々が「いったい何を持って人間らしさ」または「人との絆」を保つことができるか?という問いだと思う。ゆえにこの映画は色んな人が見る価値があるのではないかと思う。
(好きになるか嫌いになるかは別としてね)

<補足>
・「万引きを助長するタイトルで犯罪を助長する~」という批判
 ここで描かれているのは世間的に見捨てられたような人々から見た逆転世界の風刺劇であって、犯罪を助長する/しないという批判は全く意味がない。もしもそういった事が気になる人がいるのならば、むしろこの映画を見て物語の中で何がもっとも罪深い行為だったのかと考えてみれば良い。

是枝裕和監督の『万引き家族』をネトウヨ批判 百田尚樹氏、高須克弥院長も言及
 なかにはこのような幼稚な批判をした人もいるらしい。でもこの映画が存在する事によって、逆に日本映画界も捨てたもんじゃないなと世界にアピールできたと思う。
 映画は娯楽であると同時に、疑問を持つきっかけを与えて人を成長させもする。なのでむしろ先入観を捨てて子供のように素直に物語に浸って見る事をお勧めする。

【万引き家族】安倍政権批判の是枝監督、こっそり「助成金」を利用していた事が判明し反響
 色々とある批判の中でこれが最もくだらない指摘だと思う。助成金の趣旨は優れた芸術や文化を作ることが目的だ。ならばその目的は十分に果たしている。むしろ芸術を追求せずに媚びたつまらない作品を作ることこそが冒涜であり無駄だ。
 むしろ私からすればクールジャパンみたいなのが一番、無駄でありなおかつ人々や文化に対する冒涜でだと思う。

2018年5月6日日曜日

眼に見えないモノの価値

 2018/5/4の報道によると麻生大臣は福田前事務次官のセクハラに関する問題の追及を打ち切ると発表した。その時のセリフが「セクハラ罪っていう罪はない」「殺人とか強(制)わい(せつ)とは違う」だった。
 私はこの発言を聞いた時にどこかこの社会の底が抜けたように感じた。その言葉によって今まで支えてきた柱のような物が崩れるように思えたからだ。だが私が本当にショックだったのはこのニュースの後で昔からの友人に会った時に同じセリフを聞かされたことだった。

 それは友人数人で飲んでいる席の会話だった。その中で福田前事務次官の話題が出た時に私は当然のように辞めて当たり前だという話になると思った。でも結果は違って彼らのほとんどは黙って録音するのはダメだとか、飲んでいる席だったからセクハラで訴えるのは大げさだだの、これは行かせた朝日新聞社側の問題だ・・・みたいになって加害者の責任を強く問うべきとはならなかった。
 私はそれに腹が立って色々と反論した。そもそも福田は他にもセクハラの訴えが多数ある問題人物だ。それに問題はパワハラとセクハラがセットで行われたもので、調査をすればもっと被害者がたくさんいる可能性もある。あのような問題人物を辞めさせるのは当然であって、そもそも政権や社会が被害者を保護せずに加害者の肩を持つのはとても問題があると・・・。だが私の訴えは結果としてその席で話していた誰にも伝わらなかったように思う。
 ちなみにTOKIO山口の話題にもなったが、それも同様でキスぐらいで2000万円の示談金をふんだくるのは酷い、金を貰ったくせにマスコミにタレ込むのは最悪だとか、山口は悪い奴にひっかったんじゃないとまで言い出す始末だ。彼らはずっと長い付き合いをしている友人達だったので正直私はショックを受けた。


 彼らがそんな風にハラスメントの問題で被害者を軽視して加害者側の肩を持つのは、おそらくはテレビやメディアの影響なのだろう。私はここ数年ほとんどテレビを見なくなったのでメディアでどのような論調になっているかは知らない。でもテレビの影響だと差し引いて考えてもこれは何か根本的にモラルの底が抜けたような出来事のように感じる。
 そしてもしも加えるならば視聴者側のリテラシーの問題もあるだろう。いかにメディアが加害者側の肩をもったとしても、すこし自分の頭で考えればおかしな話だなとか分かるような事も多い。
 例えばTOKIO山口の件では慰謝料が2000万円という噂が出回っている。しかしこれもおかしな話だ。そもそも秘密なはずの慰謝料の額が法外な上に、あたかも本物のように噂が伝えられるのも不自然だ。しかも噂では被害者が慰謝料をもらった上で公表して山口を破滅させたような口ぶりになっているがこれはそもそもおかしい。
 私的には示談にしなくてよかったんじゃないと思うがそれは置いとくとして・・・。スキャンダルが表に出て困るのは被害者も同様である。芸能界という排他的な場では公になれば色々と仕事をしにくくなるだろう。干される可能性も高い。なのでどう考えてもこの問題を公表したのは被害者でなく、明らかにマッチポンプをしかけて燃やしている第三者が存在する。ちなみに最初にこれをスクープにしたのはNHKらしい。
 うがった見方をすればこのスキャンダルは政権に利用されたのではないかと思う。よりによってNHKが最初に芸能記事をスクープするなんてどうも奇妙な話だ。(しかもNHKの番組不祥事らしいという)


 話を元に戻そう。普段スキャンダルに興味がない私がめずらしくいくつかコメントしてきたけど、結論として言いたいのは福田・山口の事件は両方とも情状酌量の余地がない問題行為だし、辞任するのも当然だということだ。そのうえでもっとくわしく調査をするべきだ。(他にも泣き寝入りさせられている被害者がいるかもしれないのだから)
 それなのに依然として加害者の肩をもつような雰囲気は無くなっていない。それはメディアやネットに広がっているデマの影響だ。だが私はこれらが単にデマに踊らされたわけではなく、それらの現象が今の日本で何かが大きく損なわれている事を象徴している出来事のように思う。
 私が麻生の発言でショックを受けたのは、それらが「目に見えない心や誇りなんかに価値などない」というメッセージだと受け取ったからだ。麻生に代表される彼らは「目に見えるもの」「測れるもの」「直接触れて確かめられるモノ」以外は存在しない。あるいは存在しても価値がないかのようにように考えている。

 だがこの考えは私には途轍もない人間に対する、そして広大なはずの世界そのものに対する冒涜だと思える。私たち個々の人間というのは世界や歴史といった大きな流れの中ではしょせんは小さな存在である。私たちが感じている目に見えるものや直接触れて確かめられるようなものは、それら広大な世界のほんの僅かでしかない。その僅かしか理解しない者たちが、その外に存在する広大な未知の世界を否定するのは馬鹿げている。
 私が宗教家ではないが、それでもこれらは「人間がその足元にあって土台として世界を構成する未知(神)の存在を否定しようとする」冒涜的な行為のように思える。世界は私たち個人が感知できないところに存在しないわけではない。むしろ私たちが存在するはるかに前から存在していた筈なのだからだ。


 この見えない世界は存在しないという考え方は観念的だといって済ませられるようなものではなく、実際に現実世界で多くの弊害を生み出しいているように私は思う。

 鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。(斎藤緑雨)

 これは鳴き声を出せる鳥には哀れみを感じる事が出来ても、声を出せない魚にはそれを感じる事が出来ないというセリフだ。似たような事が人間で行われている気がする。声を持たないものは存在されないかのように扱われ、声を奪われたものは同時に人間としての資格をも奪われる。

 声を出せない人たちが存在する事に対する想像力を失うならば、この世界はその存在根拠となる厚みを失ってやがて崩壊してゆく。これは人類的なテーマだ。日本でも過去に戦前のように数々の粛清などが行われた時代があった。そしてそれらに対する長い問いへの一つの結果として、人間はだれでもリスペクト(尊厳)されるべきだという考えが生まれた。それが「天賦人権論」であり憲法第11条(基本的人権の享有)にも記されている。

 二、三年前だったか片山さつきが天賦人権説を否定するような発言をして自民党の憲法改正案が話題になったことがある。当時の片山の発言は「義務を果たさない者に権利はない」といった趣旨だったが、これは逆側から言えば義務を果たさない(価値がないとみなした者)には権利を無いと主張しているのと同じである。
 もしもそう主張するのであれば例えば赤ん坊や働けなくなった老人、あるいは障害者などにも人権を与えなくても良いという事に繋がりかねない。(歴史的にみれば過去のヨーロッパには子供の人権がなく、子供が過酷労働をさせられ続ける問題から人権が作られたという経緯がある。片山の発言は人類が少しずつ前進させてきた流れへの
逆行だ)
 それに価値観だって人によっては異なる。それらを等しくリスペクトしようとする意思が必要だ。何が大切かは各自によって異なる。ゆえに自分には理解でくなくても誰かにとって重要な意味がある場合もある。それらの可能性を否定しまったら世界は途端に厚みを失ってしまうだろう。それはおそらく文明を失ってゆくに等しいのではないだろうか。


 私は麻生が象徴しているように今の日本では人間(目に見えない部分)に対するリスペクト(尊敬)が至る所で失われていっているように感じる。特に社会的な弱者は年々隅に追いやられていっているように思う。
 だがリスペクトが存在しない関係においては人間性は存在しえないのではないだろうか。立場を違えど似たような問題は日本の至る所で耳にする。それは外国人実習生の問題であったり、入管の人権を無視した行為だったり、MeTooに象徴されるようなハラスメントであったり。


<余談>
 たまたま見かけた「ひとつの本屋で起きたこと。」という記事があったがここでは現場を無視した本部側の指示によって長年続けている間に築いてきた多くの価値が失われてゆくさまが記されている。これはまさにお互いの間にリスペクトが存在しない為に起きた象徴的な出来事に思える。


<参考リンク>
麻生財務相「セクハラ罪という罪はない、殺人とは違う」

TOKIO山口達也の強制わいせつ なぜNHKが“スクープ”したのか

山口達也の強制わいせつ事件、真相を巡り詳細すぎる報道を続けたフジテレビ

ひとつの本屋で起きたこと。

天賦人権説(あるいは自然権)の否定は何が問題なのか?

2018年5月2日水曜日

あなたは「ダーティでも有能な人物」を支持しますか?

1.はじめに
 久しぶりにブログを書く。直接のきっかけはTwitterで「政治家はクリーンで無能なより、ダーティでも有能な方がまし」というのを見たからだ。だがあえてブログを書こうと思ったのは同じようなセリフをこの前に友人が言っていたのを思い出したからだ。その時はお互いに酔っていてすぐに話題が別のテーマに移ったのでそれ以上特に話をせず私も忘れていた。だが今日また同じようなtweetを見た時にこれは案外根深い問題だと直感した。
 「ダーティでも有能が良い」というのはわりと日本人は考えがちなのではないかと思う。だがそれが原因で今ある色々な社会問題を解決する足枷になっているのではないだろうか。そんなことが気になったので改めて文字にしながらこのテーマを考えて見た。


2.「ダーティで有能」というのはどんなイメージか
 まず「ダーティだが有能な人物」あるいは「クリーンで無能な人物」を具体的にイメージしてみるところから思いを巡らしてみる。私が最初にイメージしたのは最近話題になったセクハラ問題の「福田淳一氏」だ。私は正直言って彼が有能かどうかは知る由も無いが、少なくとも報道によってセクハラを繰り返すようなダーティな人物であった事は明確である。では仮に彼が有能であったとして貴方は彼のような人物が自分や娘が務める会社の上司に存在する事を貴方は(あるいは私は)良しと出来るだろうか?

 では次に政治家の例で考えて見る。現在の日本の政治状況でダーティと言えば数々の疑惑を抱える安倍総理がまっさきに頭に浮かぶ。では彼が有能なのかというのはいったん隅に置いたとして、あれだけ数々の利益誘導や虚偽答弁などの不祥事を起こした政治家を国のリーダーとして貴方は(あるいは私は)良しと出来るだろうか?

 私の意見を言えば答えは「NO」しかない。もしも自分や友人の上司であったらと考えると正直言っていやだ。たとえ有能であったとしてもこんな嫌な奴を世の中に放し飼いにしない欲しいとと率直に思う。

 では逆にクリーンで無能とはどんな人だろうか。具体的に誰かイメージできる人はいるだろうか?

 ・・・考えて見たけど実はこれは結構難しい。クリーンなのは確かだけど無能とまで詰られないといけない人間って正直いってすぐに思いつかない。私の知識量に制限されているというのもあるけど、これだけ考えて思いつかないって事から「クリーンで無能って人」は実はあんまり世の中に居ないのかもしれないという気がしてきた。はっきりとクリーンと言い切れるような人だが、無能だと後ろ指をさされるような人物って、あれっ? 本当に思いつかない。

 仕方ないので仮に小説の登場人物ならばとして考えて見た。例えばこういう人物はどうだろう。トップとして人望があり高潔で立派な言われてきた人だが不正に手を貸すのを断り結果的には会社を傾かせる。(もしくは裏切られて失脚するなど・・・) これは小説なんかでわりと良くある古典的なモチーフだ。これならなんとなくはイメージできる。

 でも改めて考えてみると、それって本当に無能とまで揶揄されるような事だろうか? もしも物語に続きがあればどうなるだろう。

 トップが失脚した後の会社は不正にどっぷりと浸かったまま抜け出せず、ついには偽装や改ざんなどの大問題を起こして致命的なダメージを受ける・・・というのがよくありそうな話だという気がする。だがこれはあくまでも物語の中の話であって現実世界で本当の結果がどうなるかは誰にも分からない。だが私はここに話の本質があると思う。

 つまり現実世界で考えれば何をもって有能か無能かというのは判断はとても難しい。そのうえにクリーンな人に対してダーティな人の方が成功の可能性が高いなどというのは、これもあくまでも想像やイメージだけの話であって根拠がない。

 私たちはなんとなく漫画や小説の影響などで、なんとなく悪っぽいダーティな人の方がタフで成功する可能性が高いというイメージを抱いている気がする。でも本当の結末はそれほど単純ではないと私は考える。
 何故ならば短期的には成功したように見えてもいずれは不正がバレて致命的なダメージを受けるというケースだって世の中には沢山あるからだ。(最近だとエアバックのタカタとか、粉飾決算の東芝とかが代表例かな)


3.現実世界は「ダーティで有能」や「クリーンで無能」のどちらでもない
 でも現実社会について詳しく観察すると事はそう簡単ではない。私が考えでは、世の中の大部分を占めるのは「ダーティで有能」や「クリーンで無能」ではなく、むしろ「ダーティで無能」だと思う。そしてそれは社会が「ダーティで有能」というのを許容すればするほどその確率は上がる。

 これは何も抽象論ではない、冷静に考えてみれば当たり前の話だ。ぶっちゃけた言い方をすると「ダーティで有能な人物」というのは、とどのつまりは「カンニングして試験に通るような人物」である。そしてそれは本質的に矛盾している。
 もしも本当に有能ならば、そもそもカンニングなんかする必要はないだろう。またカンニングして試験に通るような人物はズルしているだけなのであって、そこから将来的に良い結果を期待するというのは無理な話だと思う。

 ゆえに「ダーティで有能」などというのは、大抵は「ダーティで無能」の誤りである。そしてこういうカンニングして試験にパスするような連中がもしも居なかったならば、きっと少なくとも有能な人間がもっと増えただろうと期待できる。逆にそういうズルするような人物を社会が見逃すほどに、世の中には「ダーティでかつ無能」な人物が溢れるようになるだろう。

 そしてもう一つ付け加えるならば「クリーンでかつ上位まで上り詰めた人物」は有能である可能性も高いと期待できる。だって彼らは少なくともカンニングなしにトップに上がれるくらいだから有能であることだけは確かだろう。


4.まとめ
 ゆえに私は結論として政治家は「クリーン(でたぶん有能?)」を良しとするのが当たり前であって、「ダーティ(で?)」な人間を良しとするなどというのは非常に馬鹿げた考えだと思う。もしも「デーティで有能」でもいいや、と許容するならば結果としてはほぼ間違いなく「ダーティでかつ無能」な人物を選ぶ事になるだろう。

 ここまで話をすすめてきたが、はたして読者の方々はどう思うだろうか?

 私の感覚だと日本社会は他の先進諸国に比べて「ダーティで(有能?)」を良しとする人は多いように思う。そしてそれゆえに現在は「ダーティかつ無能」な人物がトップに溢れていて社会を停滞させているように思う。

 そしてこの仮説はおそらく簡単に証明できると思う。みんなが自分の目で実社会に目を凝らして見てみれば良い。例えば自分の務める会社や取引先、あるいは政府をよく観察すればいいだろう。

 ちなみに私は概ねこの考えは間違ってないという自信はある。(とても残念なことに・・・)

<補足>「政治家はクリーンで無能なより、ダーティでも有能な方がまし。」のネタ元
 この人のことはよく知らないけど、社会的に立場のありそうな人がこんな発言するのはどうなんだろう。こういった発言は信用に傷や信頼に傷が付いたりしないのだろうか・・・。

2018年3月18日日曜日

誰もが陥りがちな「世界を敵と味方に分けて考える」こと

 2018/3/18 ついに毎日新聞の世論調査で内閣支持率が33%まで下がった。少し前に森友学園問題に対する公文書改ざんが明るみにでたことにより、今まで官邸が行ってきた答弁がデタラメだと明らかになったからだ。そしてこれを最初にスクープした朝日新聞に追従するかたちで他のメディアもこの問題を広く報道するようになったことで明らかに世論が変わった。
 しかしそれでもまだ安倍内閣を支持している人たちが3割も存在している。これぐらい明らかな政府の問題が次々と出てくる状況では、内閣支持率はもう1桁近くまで落ちるのが妥当な評価だと私は思う。だから正直いって私はまだ3割も支持率があることに不安を感じる。

 ちなみに私の古くからの友人も安倍内閣を支持している1人である。友人と私の安倍内閣に対する評価はほぼ逆で、テーマが政治の話題になると最後はだいたい激しい口論になる。だからといって友達をやめるとかは無いけど  ”なぜに彼が今だに安倍政権を支持するか?” という疑問は頭に引っかかっていて、いずれはもっと理解したいと思っていた。

 同様の疑問で ”ネトウヨはなぜに安倍政権を支持し続けるのか?” という似たような話題はネットでも多く見かける。それに対する意見もさまざまだ。だが単純に ”ネトウヨは馬鹿だから”などと言うのは誤った理解だと思う。これは知能の問題ではなく、まずは情報の問題である。最大の原因は「メディアによる印象操作」に尽きる。
 第二次安倍内閣は第一次の失敗から学び、第二次ではメディア操作に全力をあげて取り組んでいる。また人事権を悪用して、司法界、警察、各省庁などのトップ人事をコントロールすることで誰もが表立って内閣を批判できないようにしてきた。その結果、テレビではNHKも含めて政府に不利な情報はなかなか報道されず、逆に露骨に内閣を擁護するタレントや評論家がゴールデンタイムを占める事が多くなった。彼らは詭弁と講じて批判的な意見を冷笑と共に貶め続けた。

 ”正しいインプットが無ければ、正しいアウトプットに辿りつく事はできない。”

 当然のことながら視聴者は印象操作に流されて政権に疑いを持たなかった。しかしここ一週間ほどで次々と内閣の嘘が明らかになりつづけ、ついには世論も変わった。本来はこれでほとんどの人が内閣を不支持になっていいはずだ。だがそれでもまだ3割も支持している人がいる。私はこの3割を愚かだと切り捨ているのではなく、もっと理解して議論に巻き込むべきだと思う。なぜならば、彼らはきっと特別な人たちではないからだ。(例えば初めに述べた私の友人のように)


 別に私は友人と意見が違っていてもかまわない。支持政党が同じである必要もない。だが私は彼の考えをうまく理解できないことをもどかしく感じていた。理解できそうで分からない。そう言うのもあって時々このテーマを考えてきた。
 繰り返すがおそらくネトウヨは特別な人たちではない。例えば私の友人も(彼はツイッターしないけど)、日常生活はごく普通でむしろ好人物として暮している。

 これはざっくりとした私の感覚なのだが、例えばツィッター上で言えばネトウヨで3割程度はサクラだと仮定し、残りの7割のうち本当にイかれた差別主義者は多くて5%ぐらいだと思う。そして残りは世間で顔を合わせればきっと普通の人だ。
 普通の人(ネトウヨ属性)=ネトウヨ人口 × 0.7  × 0.95  =約66%(きっと普通の人)
 (補足:感覚だけど、噂を拡散する為に必要な3割ぐらいはサクラがいるのではないかと思う)
 (補足:本当にイかれている人というのは、どの世界でも多くてせいぜい5%程度だと思う)

 そういった疑問もあって、たまにネトウヨ的な人(サクラじゃなさそうな人)に質問をして話を聞いてみた事もある。率直に話せば、わりと率直に答えてくれる事もある。だがそれでもやはりお互いの意見が噛み合わないとは感じる。


 お互いの意見が噛み合わずに議論が深まらない理由の一つは「前提知識や情報を共有できない」という問題だ。それはネットに歴史修正主義者拡散したデマが溢れている事も大きく影響している。例えば ”南京虐殺は無かった”  みたいに歴史的な事実の存在すら正しく共有されなくなると話が頭から噛み合わなくて議論に入れない。

 あと一つは今回の記事のテーマである「この世を敵と味方に分けて考える」という思考方法の問題である。
 例えば安倍政権支持者の意見としては、現時点においてであっても今だに”反日勢力が日本を弱体化させる為に内閣を執拗に攻撃し続けいてる。”というような事を述べている。これは現実的に考えればありえない妄想的なものだ。では、どうすればそのような結論や思考になるのだろう?

 私がだんだんと理解してきたのは、どうやら彼らは「まず誰が敵か味方かを決めて、そして敵味方に従って現実を解釈する」という風に考えているようだ。例えばネトウヨは「安倍政権は味方であり、野党や批判勢力は敵だ」という順番で考えている。だからどんなに事実が報道されるようになっても、それは敵側の陰謀であるという解釈になってしまう。
 本来であれば「事実を認識して、そして現実の解釈を行う(その延長として敵味方に至るかもしれない)」となるべきだ。だがまず最初に敵味方を決めてしまうとなると永久に正しい現実の解釈ができなくなる。いつどの時点で敵味方を区別するかによるが、いずれにしろ永久に敵味方が固定すると考えるのは不自然なので、これらは誤った思考パターンだ。

 だがこう書くと ”それはあくまでもネトウヨの歪んだ考え方でしょう?" と考える人もいるかもしれない。だが実は似たような考え方は、わりと無意識的にやっている考え方なのではないか。少なくとも日本ではわりと普通にある。例えば・・・
・「親と子供」「子供と親」を味方とする。(この前提を壊せずに、ハラスメントに苦しむ人もいる)
・「教師と生徒」「部活と部員」など。(自分の所属グループはとりあえず味方をみなす)
・「会社と社員」(会社は別にあなたと敵味方の関係にあるわけじゃない)
・「政府と国民」(日本の場合だとこれも多い気がする)

 この中でも「政府と国民」というのはまさにネトウヨ的な思考である。おそらくネトウヨは「政権は味方で、批判勢力は敵だ」と解釈している。だがそのようにまず初めに敵味方を固定化してしまうと、現在のように政権が汚職などで権力を私的に行使した問題が起こったときに頭を切り替えられない。

 政権の汚職は分かりやすい例だから大丈夫と思う人がいるかもしれないが、これは結構だれもが陥る問題だと思う。むしろ逆に普段から頭を柔らかくするように努力してないとすぐにはまってしまう。例えば会社や学校で、たまたま第一印象がわるかったり、間違った陰口を聞かされたおかげで、ずっとお互いに誤解をしていた・・・なんて人間関係は誰でも経験あるはずだ。ちょっとしたきっかけで、無意識的にあの人は嫌いだ、敵だなどと思い続けたというのはドラマの定番である。
(ドラマなら嫌な奴が実はいい人みたいなサプライズ展開へ行くけど、現実は逆がおおいんじゃないかな?)


 ちなみにこの問題を考えて頭に浮かんだのは、安倍政権の外交政策はまさに世界を敵味方にまず分け・・・という思考パターンの典型だなという事である。トランプへの冷静に考えるとドン引きするような媚の売り方とか、あまり現実的に有効とは思えない中国包囲網とか、北朝鮮は敵だ圧力だと何の考えもなく騒いでいるとか・・・おまえは小学生かと言いたくなるぐらいに世界を単純化しているように感じる。
 これが原因で外交政策がひどく時代遅れで的外れに見えるのだろう。本当は複雑で繊細な外交問題をこのような連中にまかせるのは途轍もなく不安だ。たまにネットで「外交問題山積みだから政権批判を控えよ・・・」みたいなコメント見るけど、むしろ今の小学生みたいな連中はすぐに辞めさせないと、まとまる話もまとまらない。


<余談>
・従軍慰安婦という永久に深まらない議論
 従軍慰安婦問題は敵味方理論で歪められた典型ではないかと思う。海外と日本での議論はどちらが正しいとかいうずっと以前に、違うテーマをお互いに話し続けているぐらいに噛み合ってない。これは日本が慰安婦問題を敵側の理論だと決めつけて、歪んだ解釈をしているからである。
 現在において本来問うべきである従軍慰安婦の意義は ”女性に対する性の搾取をいかにして無くすか” ということに尽きる。海外で多く問われているのは現在我々がどうあるべきかという事で、そもそも歴史を問題にしているわけではない。
 なんせ拗らせている大きなポイントが従軍慰安婦=Sex Slaveという英語を、和訳した際にずれて理解して慰安婦はそもそも性奴隷ではないという反論をしているのだからどうしようもない。
(補足:英語のSex Slaveは女性の自由意志が制限された状態での性的強要を指しており広意義な概念である。だがそれを理解せずに、和訳の性奴隷という言葉に過剰反応するから”お金を払ったから奴隷じゃない”とかずれた話になってる。まるでコント並みのバカげた話)


<参考リンク>
・毎日新聞世論調査 内閣支持率33% 12ポイント減

・慰安婦問題、日韓の歴史「認識」はなぜ対立する? 木村幹・神戸大教授に聞く


2018年1月8日月曜日

未来予測2018 ~社会のモラルと到達点~

1.はじめに
 毎年恒例としてここ数年続けている未来予測の記事を書く。予測と言っても実際は日記のサマリーみたいなもので「あの当時はこう感じていた」「こんな風に世の中が見えていた」という感覚を元に想像する未来像を記載したものだ。なので別に当たろうが外れようが気にせずにただ率直に思うがままを書いている。
 それではいつものように例えば日本、世界、社会などといった大くくりで色々と思った事を書いてみる。もともとあんまり細かい事を書かないので、今回も大雑把に気になった現象や事象なども踏まえて書いて見る事にする。


2.トランプと安倍が象徴するもの(2017年を振り返って)
 未来を考える前にまず2017年を振り返る。すると2017年はまさにトランプ大統領に振り回された年だったという事が見えてくる。
 アメリカ大統領のロシアスキャンダルという事が既に前代未聞だが、それ以外にも失言暴言から、国際情勢を緊張させる深刻な事態まで、トランプ現象といえるものに世界中が振り回された1年だった。そして誰もが次のように一度は考えただろう。

 「トランプ大統領とはどんな人物で何を考えているのか?」

 この問いに対して色々な意見があると思う。だが私がいつもトランプ氏という人間について考える度にイメージするのは・・・、

 例えば“近所の飲み屋でホステス相手に威張りちらしてその場限りの適当な法螺を吹く”そんな一言でいうと「口が軽いいい加減なオヤジ」である。

 つまりは信念とかポリシーとかが特にあるわけでなく、また明確な悪意や悪い事をしているという自覚も無い、ただの無責任なお調子者である。しかも自分勝手で我儘なうえに差別主義者でもある。ようするに一言でいうと「俗物」である、そして本来ならば責任のある立場について欲しくないタイプの人間だ。
 しかしこの俗物がよりにもよってアメリカ大統領であり、世界最大の軍事力と核ミサイルのボタンをあずかっている。

 ここまで書いていると私はどうしても安倍総理の事を連想してしまう。私の目から見ると安倍総理はある意味ではトランプ大統領ととても良く似たパーソナリティーに思える。例えば次のような所は二人とも考え方がよく似ている気がする。

<トランプと安倍の共通イメージ>
・独善的で強い偏見の持ち主。
・モラルが低くて嘘をつく事にためらいがない。
・責任感が感じられず政治の私物化を悪いと思ってない。
・どうやら自分では賢いと思っている。
違いはトランプが宗主国側で安倍が属国側であるというロールプレイのポジションだけだ。

 この点についてみんなはどう思うだろうか?

 単なる偶然による取るに足りない事柄だろうか?

 たまたまる政治家個人のゴシップ話が目立っているだけだろうか?

 だが私には、これらは偶然ではなくおそらくとても重要な事柄を暗示しているのではないかと考えている。つまり「アメリカ」とそしてとても強く影響される「日本」という二つの国が抱えている共通的な病のようなものが、この二人の政治家を産み出したのではないだろうか?

 私はこれらは新種(ニュータイプ)の新たな社会問題であるように思える。そして次のような二つの国が抱える顕著な問題の結果だと思う。

<両国が抱える社会の病>
・フェイクニュースの蔓延、歴史修正から感動ポルノに至る真実軽視の傾向
・貧富の拡大により中間層が激減したことによる社会不安
・グローバル化に翻弄される人々の疲弊
・コミニティが力を無くし分断された孤独な人々

 もちろんこれらは日米だけの問題ではない。だが他のヨーロッパ圏、アラブ圏、アジア圏では少し事情が異なる気がする。例えばヨーロッパやアラブでは宗教や伝統といった文化が人々を繋ぎとめているし、中国のような国では身内による強い結びつきが人々がバラバラにならないように支えている。
 日米はある意味ではこの新たな病の先進国であり、これは今後の世の中を見るうえで注意すべきポイントではないかと思う。


3.イスラム国との戦争
 2017年はついにイスラム国の敗北と撤退が顕著になった年である。そしてようやくアラブの戦争がひと段落して今後どうやって平和を担保するかの話が出始めた年だった。だがトランプ発言(アメリカ大使館のエルサレム移転)によりまた新たな緊張が起こっている。

 もともと私はイスラム国が無くなったとして、そこからどう収めるのかにはかなり疑問を持っていた。中東の争いは色々と紆余曲折のゆえになんとかイスラム国を悪者として一致団結している。だがそのイスラム国がいなくなればどうなるのか? もともと仲が良くないとか利益や主張が異なる国々や民族による争いが途端に勃発する可能性がある。

 例えばロシア対米国、クルド人と周辺国、シーア派とスンニ派の争い、イスラエルとパレスチナ、トルコとEUなど対立軸は幾らでもある。むしろ引き際の方が難しいというのが現実だろう。
 そういった中でのアメリカ大使館移転というトランプ発言だ。これは火薬庫で花火をして遊ぶのに等しい乱暴さである。

 私はこの将来にはどうしても希望が見えない。確かに「イスラム国(組織)」は結果的に中東から撤退するかもしれない。だがその後に残された空白地帯を巡って新たな紛争が起こる可能性が高い。
 私が懸念するのは、今回の争いで最も血を流して戦ったクルド人についてだ。彼らは自分達の国を得る為にもっとも勇敢に犠牲を払って戦ったと聞いている。だが彼らが期待するような十分な分け前を誰が払ってくれるだろうか? もっと言えば彼らは利用されただけなのではないだろうか?
 もしも軍事大国が言葉巧みに彼らを利用しただけであり、戦争が終わって見捨てるような事になれば、彼らは間違いなく「次のイスラム国」になるだろう。そのような混乱が起こればイスラム国も息を吹き返すかもしれないし、新たなテロがさらに世界にまき散らされるかもしれない。


4.北朝鮮問題
 北朝鮮問題は日本と韓国にとってはとてもやっかいで危険な問題である。だが日本では今だにこの危機がよく理解されてない気がする。そもそも自分たちが戦争に直接巻き込まれるという事が解ってない。だがそれ以上に何のために、どんな状況で戦争が起こるのかが理解されていない気がする。

 よく誤解されているのは「北朝鮮が宣戦布告する事はありえない」とか「いままでもよくあった北の戦争やるやる詐欺でしょ」といった声である。つまりは今までと状況が対して変わっていないという意見だ。
 だが私が危惧しているのは逆の「アメリカからの先制攻撃」である。もともと北朝鮮はアメリカとの交渉を望んでいるのであって戦争をしかけるつもりはない。現在の核ミサイルおよび弾道ミサイル技術で危機を与えているのはあくまでも対アメリカであって、日韓そのものは大きく状況が変わっているわけではない。

 では誰が戦争をやる動機を持つかといえば、それは唯一アメリカである。アメリカは安全保障の観点から本国にミサイルが届くのを嫌う。またはメンツの為に北を屈服されたいという動機である。だがそれにしても米軍人は実際に戦争になれば日韓に大被害が出る事と、半島と周辺がイラクのような大混乱になる事を懸念してむしろ慎重な態度を見せている。
 だがやかっかいなのはトランプ大統領である。彼は自らのロシア疑惑や支持率低下などの国内問題から目をそらす為に、むしろ北との戦争に乗り気だ。そして安倍総理はトランプへ媚を売るのと同時に、国内問題から目をそらす目的で北との戦争に前向きである。いまや国益ではなく、日米での政治家個人の問題から戦争の危機が高まっている。

 それにそもそも周辺国の思惑だってバラバラだ。だがそれらは日本ではよく理解されていない気がする。

1)北朝鮮のゴール(または思惑)
 自国の安全を担保。米国との和平条約を締結するなど。

2)アメリカのゴール(または思惑)
 トランプ大統領が抱える国内問題から追求の目をそらす為に戦争をやりたい。
(注:本来のあるべきゴール:自国の安全を担保。アメリカ本土への直接攻撃兵器を捨てさせる、または縛るなど)

3)韓国のゴール(または思惑)
 自国の安全を担保。紛争が起きないのが目的。米と北朝鮮和平で半島の緊張回避もあり。

4)中国のゴール(または思惑)
 北朝鮮領を中国の管理下として存続させること。壊滅して難民を出したくない。またロシア側の管理下になるのも困る。

5)ロシアのゴール(または思惑)
 北朝鮮を自国の管理下に引っ張ってくる。半島への影響力を高める。

6)日本のゴール(または思惑)
 安倍総理が抱える国内問題から追求の目をそらす為に戦争をやりたい。憲法改正や軍国化などを進める為にも戦争は好機と考えている。
(注:本来のあるべきゴール:自国の安全担保。北朝鮮壊滅で難民発生も困るし、勢力図の大幅変動も好ましくない)

 本気で戦争をやりたいと考えいるのは、おそらくトランプと安倍だけだろう。トランプにすれば国内での不人気や失策、選挙におけるロシア疑惑などの問題をうやむやにして支持率をあげるチャンスなのだろう。くわえて半島での戦争が起これば当然のように韓国と日本には大被害が起こるのだが、白人で差別主義者のトランプにすればアメリカ人の血よりはまだ安いと考えているふしもある。

 これが安倍になるとさらに厄介だ。むしろこの危機は軍国化と独裁化を強める為のチャンスだと考えている。危機に乗じて緊急事態条項を通せれば完全な独裁体制が可能になるし、そうなれば汚職などの様々な問題も一気にチャラにできる。これは安倍にとっては一発逆転の大チャンスなのである。ただしその賭けの担保は国民の生命なのだが。


5.北朝鮮との戦争による被害
 北朝鮮との戦争になれば日本にも大被害が起こる可能性がある。場合によっては国家的にも壊滅的なダメージを負う事すらありえると思う。懸念として考えている事を幾つか挙げてみよう。

①核兵器による都市、または電子パルス攻撃
 水爆クラスの核攻撃が本当に実現して成功すれば人口の何割か減るぐらいの死者が出るかもしれない。あるいは電子パルス攻撃が広範囲に行われたらそのダメージで、核施設が制御不能になる可能性もある。この場合も結果的にチェルノブイリクラスの大災害につながる可能性がある。

②ミサイルによる核施設攻撃
 もしも私が金正恩の立場ならばこれをやる。もっとも簡単で確実に戦果を得られる方法だからだ。発電等の重要施設を狙うのは戦争の定石だし、ダメージや汚染が起これば日本と米軍の行動を麻痺させられる可能性もある。ただしその場合はチェルノブイリクラスの大災害になる可能性もある。そうなれば日本全土が住めないぐらいの汚染となる可能性もあり得る。

 もちろん通常ミサイルで都市部を攻撃とか、テロによるダメージとか色々と考えられるが、一番の懸念は核施設への攻撃である。おあつらえ向きに日本海側にはずらっと核施設が並んでいる。
ちなみに私はミサイル防衛などというものをはなっから信用していない。
 あれは兵器産業の過大広告であって実際にはあまり役に立たないのではと考えている。飛んでくる半分でも落せれば幸運という程度のものだろう。そのうえ衛星軌道から来るミサイルには実質対応不能ときく。現実世界を守りたいならばミサイル防衛といった甘言にのらずに地道に平和を維持する為に交渉をするしかない。
 また半島での戦争が起こす政治的な混乱も深刻だ。もしも米国が独断で北を先制攻撃する事態になれば、中国は北朝鮮に加担すると過去に宣言している。そうなれば戦火がどこまで広がるか解らないが、少なくとも日本全域が戦火に含まれるだろう。最悪はWW3のような大規模な争いに発展する可能性もある。

 だが色々なニュースやネットでの声をみて私が疑問に思うのは、これらの深刻な問題や危険を日本の与党や右派の連中はよく理解してないのではと感じる事だ。気楽に今まで通りにアメリカについていけば大丈夫と考えているようだが、アメリカと日本では大きく立場が異なる。
 ボクシングの試合に例えると、日本はリングで戦うボクサーだが、アメリカはリング外で指示を出すセコンドのようなものだ。最悪ボクサーは死ぬかもしれないが、セコンドが死ぬことはあり得ない。アメリカからすれば半島での戦争は中東でやっている事と変わりないのだろう。被害や損失はあっても自国で人が死ぬわけじゃない。
 この状況で無条件にアメリカに従おうとする行為、それこそが本当の平和ボケである。これに比べると韓国の対応は極めて常識的である。大統領の文在寅が極めて慎重な態度を示しているが、これは当たり前の行為であり、彼は自国民を守るという責任を果たしている。むしろ日本政府の態度ははなっから日本国民を守るという責務を放棄している。


6.いまの世界が示すもの(文化の限界点)
 トランプや安倍のようなリーダーが登場した事は何を示しているのだろうか。私はそれらが示すのは「フェイクニュースが蔓延した世界」の到来だと受け止めた。ここで言うフェイクはオーウェルの「1984」的な世界であり、それがいまや資本主義と個人主義を通じて実現されつつあると考えている。
 フェイクニュースが蔓延する世界とは、真実が軽視される世界であり、強者は身勝手な嘘を振りまいて欲望を満たし、弱者は麻薬のような夢に溺れるか誰かを憎悪するように仕向けられた世界である。

 もともとそれらは人々の様々な欲望や弱さに付け込んで蔓延するが、なかでも特に日本は耐性が無いように感じる。理由は日本社会には一本筋が通った理念やモラル(あるいは信念)というものが欠如しているせいだろう。確かに思い返せば、私もモラルや理念というものを学んだ記憶も無ければ、社会で目にする事もほとんどない。

 例えば教育を通じて教えられたのは、良い学校でて良い企業に勤めろというような事や、規律や周囲に従うだの、疑問を考えるより前にまず従えとかいった事ばかりだ。そのどこにも「人としてどうあるべきか」とか「より良く(善として)生きる」とはどういう事かなどと学ぶ機会は無い。そして家庭や社会においても教えてくれる場は無い。
 他国では宗教がこの部分をサポートするのかもしれない。だが日本社会では宗教がモラルとしての役割を果たす場面がなく葬式(死者を弔う儀式)以外に出番が無い。

 この「モラル(高い理念)」が存在しない事が実質的に社会の上限を定めている。たび重なるハラスメント、次々に表に現れる偽装、ネットで自由に発言できるようになった途端に溢れるヘイトや中傷など、これらはあるべくして現れたものだ。
 そしてこういった多くの問題が出ながらそれらの解決への道筋すらつけられない現状そのものが、まさに日本の限界、つまりは「今の腐った土台(文化)に建てられる限界」なのだと私は思う。

 そう考えて世界を見れば、西洋社会やアラブ社会には宗教というモラルがまだ生きており、彼らは葛藤をしながらも試行錯誤を続けているように見える。一方中国のような国では民間にある血縁主義というべきコミュニティがその代わりをしているように見える。いずれにしろそこには何らかの譲れないモラルのような物があり、そして葛藤しながらも取り組み続けている姿があるように思う。
 それはおそらく今の日本には無いものだろう。日本にはコミュニティというべきものがほとんど失われており、大衆化した悪意に対して対抗すうような術が亡くなってしまっている。より良く生きようと願うような人をサポートする社会も組織も法もない。


 将来への予測としてこの問題を考えたとき、私は日本については正直言って改善される見込みはないと考えている。より良く生きたい人は国を捨てるしかないように思う。
 だが海外がどうかというと西洋社会はまだ日本よりも望みはある。しかし危ういように感じる。イスラム国戦争から始まった難民問題などを解決するには、もう一段階ステップアップした理念のようなもの、そしてそれを実現に移すだけの知恵や法が必要だと感じる。


<余談1:テクノロジーに期待するもの>
 もしも画期的なテクノロジーが出てきて、結果としては「人が食う為に働く」事から解放されたら、私は新たなステージのようなものが搭乗するのではないかと思う。「生きる」事が保証された世界であれば、人は「より良く生きる」事を願う(あるいは競う)ようになるのではないだろうか?

<余談2:天皇が示すもの>
 日本には柱とも言うべきモラルが無いと述べると、だからこそ「天皇」でこの隙間を埋めようという話がすぐに出てくる。
 しかし天皇は私が述べた意味での柱になる事はできない。なぜならば天皇はなんの「モラル」や「理念」も持ち合わせていないからだ。そこにあるのは「(多くの者が願う)都合の良い解釈」だけである。天皇は神の代わりにもなれないし、法の代わりにも、良心の代わりにもなれはしない。それは日本人が昔から好んでやる誤魔化しのテクニックである。そしてなんの解決にも、救いにもつながりはしない。


<参考リンク>
未来予測2017 ~歪みが深まる時代~

未来予測2016 ~世界3つのシナリオ~

未来予測2015 ~不安定化する世界~

未来予測2014 ~安倍政権という方向性~

未来予測2013 ~私的予言録~