2018年5月6日日曜日

眼に見えないモノの価値

 2018/5/4の報道によると麻生大臣は福田前事務次官のセクハラに関する問題の追及を打ち切ると発表した。その時のセリフが「セクハラ罪っていう罪はない」「殺人とか強(制)わい(せつ)とは違う」だった。
 私はこの発言を聞いた時にどこかこの社会の底が抜けたように感じた。その言葉によって今まで支えてきた柱のような物が崩れるように思えたからだ。だが私が本当にショックだったのはこのニュースの後で昔からの友人に会った時に同じセリフを聞かされたことだった。

 それは友人数人で飲んでいる席の会話だった。その中で福田前事務次官の話題が出た時に私は当然のように辞めて当たり前だという話になると思った。でも結果は違って彼らのほとんどは黙って録音するのはダメだとか、飲んでいる席だったからセクハラで訴えるのは大げさだだの、これは行かせた朝日新聞社側の問題だ・・・みたいになって加害者の責任を強く問うべきとはならなかった。
 私はそれに腹が立って色々と反論した。そもそも福田は他にもセクハラの訴えが多数ある問題人物だ。それに問題はパワハラとセクハラがセットで行われたもので、調査をすればもっと被害者がたくさんいる可能性もある。あのような問題人物を辞めさせるのは当然であって、そもそも政権や社会が被害者を保護せずに加害者の肩を持つのはとても問題があると・・・。だが私の訴えは結果としてその席で話していた誰にも伝わらなかったように思う。
 ちなみにTOKIO山口の話題にもなったが、それも同様でキスぐらいで2000万円の示談金をふんだくるのは酷い、金を貰ったくせにマスコミにタレ込むのは最悪だとか、山口は悪い奴にひっかったんじゃないとまで言い出す始末だ。彼らはずっと長い付き合いをしている友人達だったので正直私はショックを受けた。


 彼らがそんな風にハラスメントの問題で被害者を軽視して加害者側の肩を持つのは、おそらくはテレビやメディアの影響なのだろう。私はここ数年ほとんどテレビを見なくなったのでメディアでどのような論調になっているかは知らない。でもテレビの影響だと差し引いて考えてもこれは何か根本的にモラルの底が抜けたような出来事のように感じる。
 そしてもしも加えるならば視聴者側のリテラシーの問題もあるだろう。いかにメディアが加害者側の肩をもったとしても、すこし自分の頭で考えればおかしな話だなとか分かるような事も多い。
 例えばTOKIO山口の件では慰謝料が2000万円という噂が出回っている。しかしこれもおかしな話だ。そもそも秘密なはずの慰謝料の額が法外な上に、あたかも本物のように噂が伝えられるのも不自然だ。しかも噂では被害者が慰謝料をもらった上で公表して山口を破滅させたような口ぶりになっているがこれはそもそもおかしい。
 私的には示談にしなくてよかったんじゃないと思うがそれは置いとくとして・・・。スキャンダルが表に出て困るのは被害者も同様である。芸能界という排他的な場では公になれば色々と仕事をしにくくなるだろう。干される可能性も高い。なのでどう考えてもこの問題を公表したのは被害者でなく、明らかにマッチポンプをしかけて燃やしている第三者が存在する。ちなみに最初にこれをスクープにしたのはNHKらしい。
 うがった見方をすればこのスキャンダルは政権に利用されたのではないかと思う。よりによってNHKが最初に芸能記事をスクープするなんてどうも奇妙な話だ。(しかもNHKの番組不祥事らしいという)


 話を元に戻そう。普段スキャンダルに興味がない私がめずらしくいくつかコメントしてきたけど、結論として言いたいのは福田・山口の事件は両方とも情状酌量の余地がない問題行為だし、辞任するのも当然だということだ。そのうえでもっとくわしく調査をするべきだ。(他にも泣き寝入りさせられている被害者がいるかもしれないのだから)
 それなのに依然として加害者の肩をもつような雰囲気は無くなっていない。それはメディアやネットに広がっているデマの影響だ。だが私はこれらが単にデマに踊らされたわけではなく、それらの現象が今の日本で何かが大きく損なわれている事を象徴している出来事のように思う。
 私が麻生の発言でショックを受けたのは、それらが「目に見えない心や誇りなんかに価値などない」というメッセージだと受け取ったからだ。麻生に代表される彼らは「目に見えるもの」「測れるもの」「直接触れて確かめられるモノ」以外は存在しない。あるいは存在しても価値がないかのようにように考えている。

 だがこの考えは私には途轍もない人間に対する、そして広大なはずの世界そのものに対する冒涜だと思える。私たち個々の人間というのは世界や歴史といった大きな流れの中ではしょせんは小さな存在である。私たちが感じている目に見えるものや直接触れて確かめられるようなものは、それら広大な世界のほんの僅かでしかない。その僅かしか理解しない者たちが、その外に存在する広大な未知の世界を否定するのは馬鹿げている。
 私が宗教家ではないが、それでもこれらは「人間がその足元にあって土台として世界を構成する未知(神)の存在を否定しようとする」冒涜的な行為のように思える。世界は私たち個人が感知できないところに存在しないわけではない。むしろ私たちが存在するはるかに前から存在していた筈なのだからだ。


 この見えない世界は存在しないという考え方は観念的だといって済ませられるようなものではなく、実際に現実世界で多くの弊害を生み出しいているように私は思う。

 鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。(斎藤緑雨)

 これは鳴き声を出せる鳥には哀れみを感じる事が出来ても、声を出せない魚にはそれを感じる事が出来ないというセリフだ。似たような事が人間で行われている気がする。声を持たないものは存在されないかのように扱われ、声を奪われたものは同時に人間としての資格をも奪われる。

 声を出せない人たちが存在する事に対する想像力を失うならば、この世界はその存在根拠となる厚みを失ってやがて崩壊してゆく。これは人類的なテーマだ。日本でも過去に戦前のように数々の粛清などが行われた時代があった。そしてそれらに対する長い問いへの一つの結果として、人間はだれでもリスペクト(尊厳)されるべきだという考えが生まれた。それが「天賦人権論」であり憲法第11条(基本的人権の享有)にも記されている。

 二、三年前だったか片山さつきが天賦人権説を否定するような発言をして自民党の憲法改正案が話題になったことがある。当時の片山の発言は「義務を果たさない者に権利はない」といった趣旨だったが、これは逆側から言えば義務を果たさない(価値がないとみなした者)には権利を無いと主張しているのと同じである。
 もしもそう主張するのであれば例えば赤ん坊や働けなくなった老人、あるいは障害者などにも人権を与えなくても良いという事に繋がりかねない。(歴史的にみれば過去のヨーロッパには子供の人権がなく、子供が過酷労働をさせられ続ける問題から人権が作られたという経緯がある。片山の発言は人類が少しずつ前進させてきた流れへの
逆行だ)
 それに価値観だって人によっては異なる。それらを等しくリスペクトしようとする意思が必要だ。何が大切かは各自によって異なる。ゆえに自分には理解でくなくても誰かにとって重要な意味がある場合もある。それらの可能性を否定しまったら世界は途端に厚みを失ってしまうだろう。それはおそらく文明を失ってゆくに等しいのではないだろうか。


 私は麻生が象徴しているように今の日本では人間(目に見えない部分)に対するリスペクト(尊敬)が至る所で失われていっているように感じる。特に社会的な弱者は年々隅に追いやられていっているように思う。
 だがリスペクトが存在しない関係においては人間性は存在しえないのではないだろうか。立場を違えど似たような問題は日本の至る所で耳にする。それは外国人実習生の問題であったり、入管の人権を無視した行為だったり、MeTooに象徴されるようなハラスメントであったり。


<余談>
 たまたま見かけた「ひとつの本屋で起きたこと。」という記事があったがここでは現場を無視した本部側の指示によって長年続けている間に築いてきた多くの価値が失われてゆくさまが記されている。これはまさにお互いの間にリスペクトが存在しない為に起きた象徴的な出来事に思える。


<参考リンク>
麻生財務相「セクハラ罪という罪はない、殺人とは違う」

TOKIO山口達也の強制わいせつ なぜNHKが“スクープ”したのか

山口達也の強制わいせつ事件、真相を巡り詳細すぎる報道を続けたフジテレビ

ひとつの本屋で起きたこと。

天賦人権説(あるいは自然権)の否定は何が問題なのか?

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