2018年11月1日木曜日

指導要領の「論理国語」「文学国語」が示すもの 〜自然言語の二つの役割〜

1.はじめに
 ときどきネットで耳にする学習指導要領の改訂(「論理国語」「文学国語」という分類)だが、話を聞くたびにモヤモヤとした違和感を感じ、そのくせ言葉にできずという思いを抱えていた。なんだかオカシイという思いはするが、どうオカシイかをうまく言葉にできない。だがようやく最近は自分の中でその問題点や疑問点が整理できてきた。なのでちょっと今回はざっくりと私が考える問題点や疑問点について書いてみることにする。


2.まず学習指導要領等の改善内容とは
 学習指導要領によれば高校の国語教科が次のように細分化されて再編成されるらしい。
<高校の科目変更>
・現行)「国語総合」 、任意:「国語表現」「現代文A」「現代文B」「古典A」「古典B」
・新規)「現代の国語」、任意:「言語文化」「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」

<新規の内訳(概要)>
・「現代の国語」…実社会・実生活に生きて働く国語の能力を育成する。
・「言語文化」 …上代(万葉集の歌が詠まれた時代)から近現代につながる我が国の言語文化への理解を深める。
・「論理国語」 …多様な文章等を多面的・多角的に理解し、創造的に思考して自分の考えを形成し、論理的に表現する能力を育成する。
・「文学国語」 …小説、随筆、詩歌、脚本等に描かれた人物の心情や情景、表現の仕方等を読み味わい評価するとともに、それらの創作に関わる能力を育成する。
・「国語表現」 …表現の特徴や効果を理解した上で、自分の思いや考えをまとめ、適切かつ効果的に表現して他者と伝え合う能力を育成する。
・「古典探究」 …古典を主体的に読み深めることを通して、自分と自分を取り巻く社会にとっての古典の意義や価値について探究する。


3.新要領の何に違和感を感じるのか?
 ネットでよく話題になるのは新要領の「論理国語」と「文学国語」という分け方である。従来は必須に含まれてた文学国語的な要素が、新案では任意になるので選択不要になる。そのことについて多くの人が直感的に違和感やショックを感じたようだ。(ちなにみ私もその1人)

 これは確かに私も初めて聞いた時に何かショックを受けた。でも改めていま考るとショックを受けた理由は、教育要領そのものよりも従来の政治や社会情勢から来る感覚的な反応だったような気がする。(もしもこの話を20年前に聞いたら「ふ〜ん」と思っただけかもしれない)
 だが今だからこそショックを受けた。その理由は近年の文系軽視や理系尊重という流れと、教育勅語を復活させよう的な話題が出るほどの右寄りして硬直しつつある社会情勢のせいだ。この近年の文系軽視は私からすれば「教養の軽視」だと考えてきた。そして大学改革の中で実学重視と言いながら企業による社員教育の肩代わりを大学にさせようとするおかしな流れに危機感を持っていた。

 だからこそ今回の「論理国語」と「文学国語」というのもショックを受けた。
 ・「論理国語」 → 実学、企業向けの前段階研修的なもの
 ・「文学国語」 → 教養、趣味的な物であってもなくても良いもの
 つまりは上記のような考えで、これも今までの文系軽視の流れの一つではないかと直感したからだ。

 でもその実学重視、教養軽視という風潮の何がやばいのだろう?

 なんとなく人間性軽視で金銭や効率重視というイメージは漠然とある。それと言語というものを最近はあまりにも道具として軽視しすぎている、言い換えるとその影響力や力を舐めているという感覚もあった。だがどうも言葉に出来なくてヤバイ気はしているものの説明出来ないもどかしさでモヤモヤしていた。


4.自然言語(日常言語)の持つ役割と機能
 だがこの漠然としたモヤモヤがコンピューターシステムに例える事でやっと理解できた。
 つまり自然言語というのはそもそも二つの役割があって、その一つは相手とのコミニュケーション(意思疎通)であってコンピュータの世界で例えるならば外部インターフェイス(又は通信プロトコル)のようなものである。そして論理国語というのはまさにこれで、他者との論理的なコミュニケーションをどう正確に効率よく行うかを学ぼうという試みだと思う。それ自体は問題ではないし重要なことだ。
 だが自然言語の役割はそれだけではない。私たちは言語によって考えたり感じたりする。普段は意識していないが言語は私たち自身を常に再構成する要素でもあるのだ。例えるならばコンピューターのOSに相当する。

 話を解りやすくする為に乱暴なのを承知でまとめると次のようになる。
<自然言語の役割>
1)通信:会話や文章で外部とのコミュニケーションを行う
 学習指導要領=現在の国語、論理国語

2)OS  :自身そのものを構成する。あらゆる思考活動や感覚の感情の基礎。
 学習指導要領=その他もろもろ(言語文化、文学国語、国語表現、古典探求)

 つまりずっと感じていた違和感の正体は、みなさん自然言語の役割のうちインターフェイス(ビジネス的なもの)だけにこだわりすぎて、もっと重要な根本のOS機能(言語そのものが私たちの思想や感情を構成して左右する)部分を軽視しすぎてはいませんか? という事だったのだ。


5.「論理国語」「文学国語」という安易な分類の違和感
 有名な聖書のセリフの「はじめに言葉ありき」ではないが、言語は私たちを構成していて、なおも構成し続ける(つまり私達は言葉によって考えるがゆえに、常に言葉によって再帰的に構成される)のである。当然ながら人間というOSの中では論理的なコミュニケーション以外の部分の方が圧倒的に大きい。
 本来の文学や文系というのは、そういう人間のOSという部分をいかに構築するべきかという学問の一つではなかったかと思う。ゆえに最近の風潮はあまりにも安易でかつ近視眼的ではないかと危惧する。

 言葉は私たちの考えや感情を規定している。これをテーマにしたのが有名なジョージ・オーウェルの「1984」だ。この中では言葉の意味を置き換えて反抗の言葉を存在しなくする事で、人間をシステムに従わせる全体主義社会が描かれている。

 あるいはずっと前にこんな話を聞いたことがある。普段私たちが使う氷や雪という言葉はせいぜい呼び名が数個だが、エスキモーのように雪の世界で暮らす人たちは雪の事(状態)を数十の単語で使い分けているという。
 もしも私が彼らの中に入れば、雪という言葉数々の形に細分された世界の広がりを知るだろう。だが逆の彼らが私の所へくれば、雪がどれも似たような狭い世界に閉じ込められるように感じるだろう。(だって雪の細かい状態を説明してもついてこれる人が居ないんだもの)

 同様にもしも赤とか青とか色々な色彩に関する言葉が消滅したらどうなるだろう?(私たちの記憶や記録から消滅したら)
 世界は明るい・暗いだけで表現されたモノトーンのような世界になる。もしもそうなれば豊かな色彩を持つ絵画は存在せず、表情や自然の変化を表すような言葉も減り、嬉しいや悲しいといった感情さえも大幅に減少した世界になるかもしれない。
(だって顔を赤くした、真っ赤にして怒ったとかいう表現も出来ない。現在と比較すると欠けた世界になるのだから)

 つまりここで言いたいのは、言語や表現は私たちの発想する世界の広がりや多彩さも規定してしまうということだ。これこそが近年の文系軽視という行為に対する最大の懸念である。

 もっとはっきり言えば、文系軽視とは私たちを構成するOSをどんどんショボくするだけなのだ。

 OSがショボくなってゆくのに、インターフェースだけがリッチで高機能になる筈がない。そもそもインターフェイス出来るようなものも減ってゆくだろう。つまりビジネスだけ成功する事などあるはずがなく、逆にビジネスも文化も社会もやがては人間さえもがどんどんさびれてショボくなるだろう。つまりは退化である。


6.おわりに
 もう手遅れかもしれない。でもこの文系軽視の問題はいずれは社会に顕著な影響を与えると私は考えている。それもきっとネガティブな方向で。

 私は個々の詳細な中身、例えば「山月記」「こころ」などの著名な作品が読まれるのがけしからんとかは言うつもりはない。例えば「山月記」よりも島田雅彦の作品を読ませる方が面白いかもしれない。問題なのはそういう小さなテクニック的な部分ではなくて、もっと根本のコンセプトの部分である。

 私達はもっと言語がOSのように私達自身を再構成している、良い方向にも悪い方向にもフィードバックがかかるような性質のものだと知るべきである。そうした上で改善や多様性を考えるべきだ。

 例えば、私が考えるに英語と比較して「日本語は嘘を付くのが簡単すぎる」言語だ。なのでもっと正直で誤解がないように言語を改善したらと思う事もある。きっといろんな形で私たちの日本語そのものを、そしてその延長上の社会や文化も改善する事は理論的には可能だと思う。


<余談>
 近年あまりにも文系や言語を舐めているような風潮が多すぎる気がする。例えば英語教育もそもそもおかしいし。ちなみに機会があればどこかで書いてみたいが、私の考えでは日本の学校英語教育での最大の問題は「日本語を通して英語を理解しようとする」コンセプトだと思う。今回の話の流れにもつながるのでちょっとおまけに書く。

<英語教育の方針イメージ>
1)現在の日本式
 日本語OSの上に、日本語<>英語の変換インターフェースを載せる。
(常にOS上で、日本語<>英語という変換処理が発生する)

2)私のイメージ
 日本語OSと共存する形で、英語OSをインストールする。
(英語は英語として処理するだけなので、言語変換は行わない)

 ざっくりと書くとこんなイメージ。1)は習得が困難な上に処理負荷も高い。だって日本語と英語の全マッピングをやって常に変換をしようなんて負荷が高すぎる。実際に1)の方式ってものすごくハードルが高くてしんどいし、2)の考えの方が楽だ。それに2)の方がOSとしての世界や機能が拡張されて良い事や面白い事もおおしね。

以上