2019年5月2日木曜日

映画「主戦場」 〜慰安婦像が象徴するもの〜

1.はじめに

映画「主戦場」を見てきた。あまりメディアで大きく取り上げられてないようだが、私が出かけた小さな映画館は立ち見が出るくらい賑わっていた。映画のテーマが慰安婦問題とあって客層は年配の人が多い印象だったが、それでもポツポツと若い人の姿もあった。おそらく口コミできた人達なのだろう。それらを見て、この映画が投げた波紋は静かにだが広がりつつあるような感触を受けた。

2.概要

この映画はミキ・デザキ(日系アメリカ人映像作家)による「従軍慰安婦問題」に対する検証・分析ドキュメンタリーだ。
 映画の特徴はなんと言っても豊富なインタビューだろう。それも訴える側だけじゃなく否定する側も含めて双方にバランスよく話を聞いてる。なのでネットで有名な多くの歴史修正主義者やレイシストも多くコメントしており、見応えのある内容になっている。

<従軍慰安婦問題とは?>

慰安婦問題についてよく知らない人の為に少しだけ大雑把な説明をすると、従軍慰安婦とは旧大日本帝国政府における公的な売春制度である。アジア各地に戦線を広げた日本政府は、前線兵士が住民への危害や暴行を防ぐ目的として近くに「軍慰安所」と呼ばれる売春宿のようなものを沢山つくった。そこで兵士の相手をさせられていたのが慰安婦である。
 慰安婦には日本人もいたが、多くは当時の帝国植民地(韓国、台湾)であり、その大部分が騙されたり強制的に従事させられていたという。現在の慰安婦問題は韓国人の元慰安婦による訴えを元に、主に韓国より問題を明らかにしようという運動が続けられている。それに対して日本の右派ではこの問題をタブーとしてずっと否定および矮小化しようとしてきていた。
 これは日本ではよくあるパターンだが「従軍慰安婦」といかにも高尚そうなネーミングをつけているが、実態は合法的な「性奴隷」制度と呼ばれるような代物である。だが日本政府は過去に問題そのものを河野談話として認めはしたが、それに対する被害者の名誉回復や保証などの公的な対応はずっと拒み続けている。
 だが問題は慰安婦だけではない。慰安婦問題を否定する歴史修正主義者の多くは同時に南京虐殺や731部隊の人体実験等も否定しており、これは日本全体の歴史問題とも繋がっている。

 なお「主戦場」というこのドキュメンタリー映画は次の点で極めてユニークである。
・慰安婦問題の否定論者(歴史修正主義者)への豊富なインタビュー
・歴史修正主義者がよく使う問題のすり替えや歪曲に対する丁重な説明と検証

 映画の大部分は、まず歴史修正主義者の言い分を聞き、次に歴史家などによる反論、加えて監督による解説という構成で進められている。これはシンプルだがとても明快で分かりやすい。まさに痒い所に手が届く感じで、今まで歴史修正主義者がやってきた「どっちもどっち論」の問題点や胡散臭さがよく理解できる。

 なので詳しい事前知識が無くても十分に見て楽しめる映画となっている。

3.映画評・クオリティ

まず映画評として最初に述べたいのは、これはとても丁重に作られた良質なドキュメンタリーだという点だ。時間にして122分と長いがダレる事もなく最後までずっと引き込まれるように見た。つくづく感心するけど、本当に論点や説明などがわかりやすい。
 そして慰安婦像などの表面的な問題だけじゃなく、否定する歴史修正主義者にどのような背景があってどう日本政府が関わってきたのかなども丁重に説明されている。

 何度も登場するテキサス親父や杉田水脈、櫻井よしこなどの著名人へのインタビューも豊富で見応えがある。また否定論者がよく使う「従軍慰安婦の20万人は多すぎる、だからあれはでっち上げた」というロジック等に対しても「なぜ20万人という数字が見積もられたのか?」やその計算や考え方など詳しく説明されている。
<よくある争点>
・従軍慰安婦は性奴隷ではないという主張
・強制連行は無かったという主張
・日韓合意で解決墨という主張
・慰安婦像問題への日本政府の関わり
・教育への影響など・・・

 この映画をひとつをみるだけで主だった疑問は大部分が解消できる。なのでこれはぜひ見て欲しいオススメ映画である。

<補足>

ちなみに杉田水脈は最もインタビューに多く登場して、そのメチャメチャな主張に映画館内に何度も笑いが起きていた。本当に「おまえはどこのパラレルワールド出身だよ?」とツッコミたくなるような発言が多かった。もう単にナショナリストというだけじゃなく現実認識がデタラメすぎ。リアルに「日本が無双(という異世界)」から転生してきた政治家みたいな発言だらけだった。
(ちなみに最後の方で登場する日本会議の重鎮になると、会話の節々からどうも第二次世界大戦で日本がアメリカに勝利した事になっているらしい。さすがに重鎮だけあって歴史修正を極めた内容だった)

4.「国 対 国」ではなく「人権 対 人権」へ

この映画を見て私が感じた最も重要な指摘は、慰安婦問題は「国 対 国」ではなく「人権 対 人権」という視点で考えなければならないと繰り返し述べられる部分だ。
 日本政府や保守論壇の対応は慰安婦問題を「国(韓国,中国,...) 対 国(日本)」の問題だと考えて必死に拒否しようと四苦八苦している。だが実際に慰安婦問題を提起している人々が目指しているのは「普遍的な人権 対 歪な人権」という闘争である。それは過去の慰安婦に対する名誉回復だけではなく、現在につらなる異なる女性蔑視やレイシズムなども含めた幅広い闘争の一部でもある。
 例えばネトウヨが慰安婦問題に対する当てつけとして、よく「ライダハン問題(ベトナム戦争時の韓国軍の性暴力)」を持ち出すが、そのライダハンの問題を追求してきたのも慰安婦問題を追求している人々である。それは彼らが「国 対 国」ではなく「人権 対 人権」と考えているから出来ることだ。
 私はいい加減に日本政府も日本人もそのことを理解すべきだと思う。そしてそれが出来ないのならば、いずれは世界中からレイシスト国家として見放される日がくると思う。
(既に見放されてない事を願うが・・・)

5.「奴隷」の定義

あともうひとつ私が考えさせられたのは「奴隷」の定義である。何度も繰り返されてきた「慰安婦は給与を得たのだから売春部であって奴隷じゃない」という主張がある。だがこれがずっと日本と世界で定義が噛み合っていない。
 世界的な定義では、奴隷とは自由がない状態であって、例えば鎖で繋がれているかどうかや、給与を貰っているかどうかは関係がない。もう少し加えれば、直接拘束されなくても恐怖や権力で自由を奪われた状態も等しく奴隷であると考えている。

 その話を聞いててふと思った。

 「その定義に合わせると、日本は現在も奴隷だらけではないのか?」という疑問だ。

 確かに給料もらう、休日もある、職業選択の自由もある・・・、でも自由が無い労働者が大勢いるのではないだろうか?

 例えば、ある人は激しいハラスメントに耐え続けている。ある人は有給さえまともに消化できずに過酷な勤務に耐えている。またある人は職を失うことを恐れて嫌々ながら仕事に従事させられている。

 最近大きく取り上げられたセブンイレブンの問題はまさにそうだ。セブンイレブンの店舗オーナーは24時間営業という枷を課せられ、体を壊したり家族がメチャメチャになった人もいる。彼らの扱いはまるで奴隷のように過酷ではないのか?

 似たようなものは他にも沢山ある。現在もっとも過酷だと考えられているのが「技能実習生」だ。借金漬けにされたり、安月給の上に激務やハラスメントに耐えなければならない。なかには福島原発で事後処理をさせられていた者までいる。

 これらは今の日本では合法かもしれない。だがまさに「主戦場」で問われている奴隷問題と同じではないのだろうか?

 日本人は「奴隷」である状態に慣れすぎてるからこそ、慰安婦の様な人達(痛みを抱える人々)への共感を失っているのではないだろうか?

 大げさに聞こえるかもしれないが、私はこのインスピレーションはおそらく正しいと思う。日本は徐々に民主主義的な社会から、貴族が支配するような封建社会へと退行している。映画でも指摘されていたが、歴史修正やレイシズムの影には明らかに封建社会(戦前の大日本帝国時代)への回帰願望がある。

 もしも私たちが慰安婦問題をきっかけとして、「人権」に目覚めなければ、やがて私たちもまた奴隷として使役されるかもしれない。あるいは世界中から知性の通じぬ野蛮人として袋叩きにされる日が来るかもしれない。

<参考リンク>

映画「主戦場」公式サイト

2019年3月30日土曜日

昭和のノスタルジー

1.はじめに

もうすぐ平成が終わり、次の元号が数日後には発表されるらしい。普通ならここで平成を振り返ってとなるのだろうが、あえて私はそのひとつ前の昭和の記憶について語ろうと思う。
 私は昭和40年生まれだ。当時は高度成長からバブルへと移行してゆく時代だった。共に過ごした昭和はたかだか20年程度である。だがそれでも最近のニュースやネットを見ていると、多くの人は僅か30年ほど前すら記憶喪失になっているように感じる時がある。
 例えば中国とか韓国など近年の発展が目覚ましい国に対しての批判の軽さなどだ。発展する国ででの多くの問題は日本も過去は同様に悩まされてきたではないかと言いたくなる。私たちは一気に今のようになったわけではない。数十年前はもっと野蛮でもっとナイーブだった。他人事みたいな顔で批判を述べるが、同じ時代を生きて知っている人がたくさんいるじゃないか? そんな風に問いかけたくなる。
 だからこそ私はあえて昭和の記憶を手繰り寄せて当時の空気について書こうと思う。それも今の自分ではなく幼い自分の目から、タイムスリップして当時の記憶を思い起こし、昭和の日本や日本人が「どの様な人達」で「どんな国」だったのかを語ろうと思う。

2.昭和のヒットソング

私が初めて音楽に目覚めたのは小学校の高学年だった。きっかけは当時流行した電子ブロック(パズルピースとなった抵抗やコンデンサを組み合わせて電気機器を作る)おもちゃでラジオを作ったことだった。ラジオは当時の私にとっては新天地のように全てが新鮮で、今考えても不思議なくらいに私はラジオに熱中し、やがてテレビを消してあえてラジオを聴くようにまでなった。

 当時の音楽シーンといえば、久米宏と黒柳徹子が司会する「ザ・ベストテン」というヒットチャートを毎週公開する番組が大人気で、松本聖子や山口百恵やピンクレディといったアイドルが登場した時代だった。学校でも同年代の子供はみんなテレビで見たアイドルの話をしていたような記憶がある。
 でもテレビではなくラジオっ子だった私は少し違っていた。テレビで流行のアイドルより、初めて聞くポップミュージック、ノーランズやクリストファークロスといった洋楽に夢中になった。

 当時子供だった私は演歌が嫌いで「いつか大人になったら私も演歌が好きになるのだろうか?」とよく考えていた。それは当時の大人たちは洋楽ポップスなどは子供向けの音楽で、大人になれば渋い演歌を聞くのが当然という顔をしていたからだ。
 そして数十年後にその答えは明らかとなった。私は今でも洋楽は大好きだ。そして演歌は大嫌いだ。それは数十年を経ても変わらなかった。私たちはおそらく日本で初めて本格的に洋楽で育った世代である。ただし10年ほど先輩とは違って、私たちが憧れていたのはアメリカ音楽ではなく、イギリス音楽だった。
 村上龍は私より世代がひとつかふたつ上だった。彼の作品やエッセイを読めば、彼がローリングストーンズなどのアメリカに激しい憧れとジェラシーを抱いていたのかがよくわかる。彼らが育った世界は日本は貧しくてカッコ悪く、アメリカは豊かや力強さの象徴だった。
 でも遅れて来た私達の世代にとって、音楽のメッカはイギリス・リバプールであって憧れはイギリスだった。むしろハンバーガーに代表されるアメリカのイメージは大味でちょっと野暮ったいと思っていた。ちょっとした時代の違いですらこれほど異なる。

 少し話が脱線したがここで本題に戻ろう。要するに何の話がしたいのかというと、昭和の終わりとは「演歌的」な世界観、「アイドル的」なもの、さらには「洋楽的」な物がミックスされた時代だったということだ。大正時代のドラマによく出てくるざんぎり頭にハカマに洋靴といった、風土固有の土俗的なものと舶来の新文化が混ざり合う中に生きていた。
 私はと言えば、当時の演歌もアイドルもどこか泥臭くて好きじゃ無かった。そして演歌のどろどろとした情念の歌詞と、アイドルのチャラチャラした歌詞に囲まれて、無理やりどちらかを選べと迫られているような気がして苦痛だった。だからこそよりいっそう洋楽の世界に憧れたのだろう。演歌もアイドルも共に古くから存在した日本の何かを継承している。だが洋楽はそれらの呪縛とは異なる世界から来たもので自由だった。
 
 あの時代に憧れて洋楽ファンになった者は多い。だからきっと私と同様に感じていた者も多かったのだろう。もちろん日本人が作った曲でも優れた物や好きな作品はある。だが歌詞に対して言えば「どうして日本の歌詞はこう薄っぺらいのか?」と私は常に不満を抱いていた。日本で作られたポップミュージックは例えどんなジャンルであれ全て「恋愛」がテーマであり、それ以外はない。まるで禁じられているかのように。
 今にして思えば無意識的なブレーカーみたいな物があって、政治や社会に対する不満を歌にするのは避けられたのだろう。避けたところで音楽は作れる。だけどそこには人生の重みが無くて、とても薄っぺらい。ある意味では私たちは人生の何たるかを語らせてもらえない子供のようだった。
 当時の雰囲気を語るならば、洗練された人々(西洋人)が優雅に楽しむパーティがあって、日本人はおっかなびっくりで初めてデビューした様なものだった。中でもイギリスはパーティの古参であって、踊ることに飽きたような余裕さえ感じられた。もしひとことで言えばこうだ。

 昭和のキーワード:「日本人は田舎者である」

 当時の私は音楽を通してずっとそう感じていた。このキーワードは今の日本人が多く忘れているような気がする。だけど幼く未熟だった昔を忘れない事も私は重要だと考える。ゆえに迷った時の為に、このスタート地点を覚えておく必要があると思う。

3.遅れて来た田舎者

先ほど述べたが当時の日本や日本人とは、一言で言えば「遅れてやってきた田舎者」である。当時の状況を思い返せばそれも容易く納得できるだろう。WW2の敗戦で全てを無くしてど貧民になる。そして苦労してようやく国際社会に復帰する。
 敗戦から20年ほどで日本は急激に経済成長したがその理由はさまざまだ。例えば大甘な敗戦処理や冷戦下でのアメリカオの積極的な支援、朝鮮戦争による特需などさまざまだ。だが私は当時の日本人を知るためにあえてそのマインド部分を掘り下げてみたい。

 おそらくWW2で敗北した後の日本人はコンプレックスの塊だったと思う。大本営発表でさんざん世界の優秀民族とか持ち上げてきた大日本帝国はあっさり無くなり、大和魂と胸を張って来た多くは近代的な合理主義に完全敗北した。その結果、鬼畜米英だったのが手のひらを返したように親米になり、学校では教育勅語ではなく民主主義や人権を教えるようになった。
 おそらく当時の日本人にはそれらをまったく理解できなかったと思う。昨日までと180度反対のことを明日からと言われて混乱しない人はいない。だが彼らはそうした。
 「どうやって?」
 「きっと深く考えるのを止めたのだ」
 そう私は思う。理屈でもなく信念からでもなく、生きるために飯を食うために、ただ言われた事を粛々とやったのだ。それはきっと当時の日本人にとって、とても理不尽だったのだろう。

 今にして思えばその理不尽さは、意味のない校則でがんじがらめにされた学校のようだったのかもしれない。いやむしろ学校がその時代の理不尽さの名残なのかもしれない。前に校則で地毛が黒でない少女の髪を染めさせたとニュースで聞いたとき、私はその理不尽さに衝撃を受けた。
 おそらく元々の校則の意図は「本校の学生は髪を染めるのを止めてくれ」だったのだろう。だけどいつからか「黒にする」事へと意味が変質し、誰もそのおかしさについて疑問を持たずに強制で従わせるようになった。
 でもそれこそが校則の本質なのかもしれない。

 「お前たちが理由を知る必要はない。お前たちが従うかどうかだけが重要なのだ」

 きっとそれが校則の本質なのだろう。

 同様に当時の日本人も似た様なものだったのではないかと私は思う。軍国主義が消滅し、初めて聞く民主主義だの人権をやれと言われ、きっとみんな意味がわからないままマネをしたのだろう。ただ戦争に負けたわけではない。全ての信念や伝統を否定され、原爆によって心を折られた日本人は限りなく卑屈だったと思う。

 渡戸稲造の「武士道」を読んだ事がある。あれは明治になって西洋デビューした日本人が切実な思いで「我々は野蛮人ではありません」と言う為に書かれた本だ。その当時も日本は田舎者だったのだ。そして田舎者だと後ろ指を指されるのを気にして必死に面を取り繕おうとあがいていた。しかしその苦労も後にWW2で全てパーになった。負けっぷり悪あがきと無様さに加えて虐殺や自殺攻撃などの蛮行もあり、おそらく当時の世界は「日本人とはとてつもなく凶暴で野蛮な連中」だと考えただろう。もう一回、明治あたりからやり直しだ。

 昭和とは、いわば評判もお金も無くしてど貧民に落ちぶれた日本が、どうにか這い上がって認めてもらおうと必死にあがいた時代だった。
 当時よく日本人は「勤勉」「謙虚」と言われていた。これは今になって思えば、田舎者がどうにか仲間に入れて貰おうと必死であがいている姿だったのだろう。そしてようやくかなったのが70年代である。GNPが世界第二位になってようやく世界に認めて貰えると思うようになった。
 ここに私が注目したいもうひとつのキーワードである。

 昭和のキーワード:「日本人は謙虚だった」

4.成金時代

若い人は知らないだろうし年配の方も忘れている気がするが、高度成長した当時の日本人はとても「謙虚」だった。私は今でも覚えているが、70-80年代に流行った自己啓発本はどれもこれもが「日本人はもっと自信をもとう」とか「謙虚すぎる」だの「はっきりとNO言えるように」といったキーワードが溢れていた。
 敗戦してど貧民におちた田舎者が経済成長してようやく世界に胸をはれると思い始めた。つまりそれぐらいに、それ以前は自信がない人達だったのだ。これは今の人たちには想像しにくいだろう。今みたいにテレビで「日本サイコー」や「日本凄い」「世界が憧れる日本」みたいなものはゼロで、当時はもっと自信だそうよ、もっと胸張っていいんだよと自分に言い聞かせていたのだ。

 まあ胸を張るのも良い、自信を持つのもいいだろう。でも田舎者がお金だけ得て出かけたら、きっとそれなりのトラブルを引き起こすのも当然だろう。特に80年代のバブルにはそういったエピソードが多くある。
 当時、札束を握りしめて海外旅行に出かける日本人達は「エコノミックアニマル」と海外でさんざんに揶揄されていた。お金はあってもマナーは全く知らない。レストランでのマナーは最低で、当時のニュースで「レストランから日本人を追い出せ」という西洋人の話もよく聞かされた。だがレストランマナーが悪いぐらいはまだ良い。最も評判が悪かったのが当時流行していた海外への売春ツアーだ。

 バブルの日本がやっていた売春ツアーとはどういうものだったかと言うと、企業ぐるみ(例えば農協)で数十人単位でフィリピンや韓国へ出かける。目的は観光ではなく売春だ。昼間は土産物屋などを時間つぶしに一応回るがメインは夜の売春巡りだ。
 今では想像しにくいだろうが当時はこれが当たり前で、フィリピンへ行くと聞くと「ああ女を買いに行くのね」というのが普通の認識だった。海外に出かける男性のマナーは最低で、娼婦でもない初対面の女性に「いくらだ?」と声をかけたというオッサンのエピソードを何回も聞いたことがある。
 この売春ツアーは海外でさんざん批判を浴びて、徐々に下火になって行った。少なくともおおっぴらにしなくなった。私は売春ツアーに行ったことはないが以前グアム旅行した際に、タクシー運転手が日本人と知るとしきりに女を勧めてきたのを覚えている。きっと日本人=売春という名残だったのだろう。
 ちなみに当時の韓国への売春ツアーは社会問題ともなり、それを契機に韓国内で女性の人権を守ろうという運動が起こった。それが後の戦時中の慰安婦問題の追及へとも繋がってゆく。皮肉な事に、ここ近年でよく話題になる慰安婦問題はバブル時代の売春ツアーによる問題認識がスタートだったのだ。
 これらを踏まえて私はもうひとつキーワードを挙げておく。

 昭和のキーワード:「売春ツアーやマナーの悪さで多くの批判を受けていた」

 私があえてこの部分を強調するかというと、最近は減ったようだが「中国人はマナーが悪くて云々」と言うのを過去によく見かけた。それを見るたびに私は「いやウチらも昔はあんなんやったやん」とか「売春ツアーしないだけずっと上品じゃないか」とよく心の中で思った。たかだか数十年しか経ってないのに、これほど自分たちの事を忘れて記憶喪失になるのはヤバイと感じる。

5.バブルでコンプレックは消えたのか?

ここまで色々と語ってきたが、ここでひとつの疑問が生じる。それは「果たして日本人のコンプレックスは消えたのか?」についてだ。これは人によって意見が違うと思う。だが私について言えば「NO」だ。コンプレックスは解消されていない。少なくとも私のコンプレックスは解消されていない。

 80年代の私はセックス・ピストルズにハマっていた。音楽的に好きだったのもあるが、歌謡曲みたいなメロドラマとは違う硬派な歌詞や世界観に憧れた。なかでもピストルズのボディーズの歌詞(和訳)を読んだ時に、なんて知性的な歌詞なんだと感動したのを覚えている。でも感動したと同時に日本との圧倒的な差を感じてショックも受けた。

 なぜならばピストルズに代表される「パンク」は本来「クソガキ」みたいな意味で、だからこそ私はイギリスのクソガキですらこれぐらいに知的なのかとショックを受けた。もちろん荒々しい過激な歌詞だが、それでも私には、それが文明人が持つ本物の苦悩みたいな物の様に思えた。それに比べれば日本の演歌や歌謡曲には惚れた腫れたしか無い。何か文明としての重みが違うように思えたのだ。もう少し言えば当時の日本にはインテリ層でさえ、ピストルズ程度の知的さを持つ歌詞を書けない様に思えた。

 そういえば細野晴臣だったかが、YMOが世界ツアーで海外でヒットした後で「初めて西洋コンプレックスから解放された」と発言したエピソードがある。これは当時の素直なクリエイターの実感だったのだろう。
 また1980にリリースされたYMOの「増殖」のスネークマンショーでもそれを皮肉ったパロディーがある。当時の日本首相が海外政治家と話し合っているシーンだが、英語がわからずに曖昧に「YES」とだけ言う日本首相に対して、外国人達が英語で日本人はバカといった悪口を言ってお互いに談笑するという物だった。それはある意味では当時のリアルな雰囲気である。

 コメディといえば私はモンディパイソンシリーズや「マックス・ヘッドルーム」などのイギリスコメディが大好きだった。当時はなんでこういうイカした番組が日本で作れないんだろうとなんども思っていた。
(まあ今だに作れてない気もするけど・・・)


6.昭和のノスタルジー

ここまで私が体験していた昭和の雰囲気について述べてきた。ここでは最近よく耳にする社会的なニュースについて、昭和の時代はどうだったのかを思い返してみる事にする。

1)在日朝鮮人へのヘイトや差別

在日朝鮮人についての差別だが、実は私は大人になるまでその存在すらも知らなかった。
 私が在日差別や問題を初めて知るのは就職して地方から大阪に来たときだった。初めて大阪にきて就職した際に、同僚に在日の人がいて身分証明書を見せてくれたのを覚えている。また大阪は在日の人が多いので不用意に「朝鮮人」みたいな言葉を使うと喧嘩になるから注意するようにとも教えてくれた。

 これは何を意味するエピソードかというと、そもそも在日朝鮮人やそれに関する問題について私たちはまったく教育をされてないし、知らされてもなかったという事だ。部落差別問題と同じで、私たちは差別が良いか悪いか以前に、その問題そのものをまず知らない。そして教えられるのは、彼らは怖い乱暴な人たちだから注意するようにという点だけだ。

 ただし今みたいに在日特権だ云々といったヘイトは無かったように思う。私たちはただ無知であり、自分らとちょっと違う人達が居るらしい・・・ぐらいにしか思ってなかった。今みたいにあちこちでヘイトが溢れるのは平成になってバブルが崩壊して落ちぶれてゆく中でのことだと思う。

2)セクハラについて

最近たびたびレイプが無罪になるニュースが連続して私もショックを受けた。だが同時にこれらのニュースを見ていて私も昭和の記憶を思い出した。

「薬を飲ませたり、酔い潰れて意識不明の女性にセックスするのはレイプだ」

 今でこそこのように考える人が増えた。だからこそニュースにもなるし怒り狂う人もいる。でも昭和の時代には、そもそも疑問にすら思ってなかったと思う。女性が酔いつぶれたらラッキーと思って持ち帰るし、便利な薬が手に入ったら飲ませれば良いぐらいの雰囲気はあった。
 だから今よりもずっとセクハラ自由な時代だった。しかしそれゆえに二人っきりで食事に出かけるといったハードルも高くて、それゆえにトラブルが今のように目立たなかったのではないかと思う。レイプなどの被害がニュースになるのは、男性のモラルが第一の理由だが、その裏には女性の社会進出が広がったという背景もあるのだろう。

 とは言え、当時のノリは要するに「嫌よ嫌よも好きのうち」(無理やり成功しても実は女は喜んでいる)であって、挿れ者勝ちだと考えられていた。だから今よりももっと野蛮だったのは間違いないと思う。それが少しずつだか世界の風潮もあって変化して、セクハラがいろんな形で問われるようになった。それはとてもゆっくりとした進化だから私も最近になるまで、昭和のもっと野蛮だった時代を忘れていた。

 でも思い出したからこそ分かるのだが、あの麻生大臣や安倍総理あたりのセクハラやレイプに対する鈍さこそが正に昭和だ。なにしろ基本が「嫌よ嫌よも好きのうち」だ。だから後からレイプだと文句を言われるのは「お前のセックステクニックに問題があるんじゃない?」、と考えるぐらいにゲスいレベルだと思う。つまりはレイプとか人権とかいう考えそのものが、頭の中が昭和で止まっているオッサンにはない。だから麻生とか安倍あたりは本気でセクハラの問題を理解してないと思う。

 思い返せば昭和は女性に対しする人権が今よりもはるかに低かった。今にして思えば人格を認めず、まるで言葉を話す家畜とでも考えているかのようなレベルだった。男の行動には口を出せず、家の中のことだけついてのみ考える事が許される、そういう雰囲気があった。そういう意味ではなんだかんだ言って女性の人権や社会進出は遥かに進歩した事については間違いない。
 ただしこの点については皮肉な側面もある。日本が貧しくなって共働きでないと生活できなくなった影響で、妻も仕事をする事が常識のように求められる世の中になった。だけど育児や家事は相変わらず妻の仕事だとされている。結果的に女性はブラック企業で働くような無茶振りを家庭で求められているのではないだろうか?

3)ブラック労働

よくあるハラスメントで年配社員が新人に「俺が若い頃はもっと働いた」という自慢がる。だが実際に彼らの方が現在よりよく働いたのかは、かなり状況がが違うので簡単には比較できない。むしろ私の意見としては現在の方が厳しくて、よりハードに働く事を求められていると思う。

 考えてみると良い。当時はネットも24時間コンビニもなく携帯電話もなかった。つまり夜遅くまで働くのを支援する設備も無ければ、それを監視するようなツールも無かった。だから徹夜するにしても現在よりもっとダラダラとしていた。
 そもそも携帯電話も無いから一歩社外へ出れば自由だった。会社を出れば、遅い時間に呼びつけられたり客からクレームがくることもない。そもそも24時間コンビニもないから深夜まで働く発想もない。ネットが無いからこそ、明日の朝までの資料を作ってメールしとけという無茶振りもない。現在とは圧倒的に密度が違う。

 要するに私達は高度に進化したテクノロジーによって、よりいっそう効率的にこき使われるようになったという事だ。ネットはとても私達を便利にしたが、同時に前より個人に負担がかかる部分もある。何でもネットで検索できる便利な時代だからこそ、企業は社員教育にエネルギーを割かなくなった。昔だとネットが無いのでノウハウは全て手取り足取り社員に教える必要があった。だけど今では各自ネットなどを使って調べるようにと言われる。昔ほど社員教育に時間をかけなくなったのではないだろうか?

 また昔は終身雇用だったから無理をしてもまだ報われる見込みはあった。だが今では無理して鬱になったら即座に解雇されるだけだ。確かに昔の方が上下関係とかハラスメントはあって厳しかったのは確かだ。だけど同時に人を育てるという意識は昔の方が遥かにあったのではなかいと思う。

4)今より自由だった

日本社会は前例主義なので、長く続けば続くほどに規則が追加されていって最後にはわけが分からなくなる。その場限りで追加された多くの規則は、不要になったとしても取り除かれることはない。そもそも規則の必要性や妥当性を検証する者がいないのだ。大抵の事柄は「とりあえず前と同様に処理しとくように」と言われる。ゆえに戦後70年を過ぎて積み重なったスパゲッティコードのような規則は多くの矛盾と無駄を孕んでいる。なので現在に比べれば昭和の時はまだ緩かった。そして自由だったと思う。

 だが昭和が自由だったのは単に時間経過の問題でしかなく、私達がとりわけ劣化したという事でもないだろう。本来は定期的にリファクタリングして規則やしきたりを見直して整理しないといけない。だが日本社会はそれが超下手なのでやれる見込みがない。結果として生産性は時間が経過すればするほどに下がってゆく。

7.最後に

私があえて新元号が発表されるタイミングで昭和の話を書いたのは、今が昔を思い出して昭和や平成を総括するべきだと思うからだ。近年は歴史修正が問題視されるケースが増えたが、近代史どころかちょっと前の昭和ですらも正しく理解されていない気がする。なかでも私はもっとも言いたいのは「日本人はまず謙虚になるべき」という点だ。

 例えばこんなエピソードがよくある。製造業の友人と話をしていると、彼らは今だに中韓を中心とする海外の技術進歩について否定的で国産でないとダメだと言い張る。その態度は私を常に不安にさせる。私が期待するのは「日本凄いから大丈夫」という態度ではなく、「お前の指摘は解っている。俺たちは彼らの事を十分に研究している」という姿勢だ。

 私はもっと日本人は謙虚になって新たな事や世界で起こっている出来事に学ぶべきだと思う。色々と問題あったけど昭和の唯一の美徳は「日本人が謙虚」だったことだと思う。謙虚になってもう一度学びなおそうとするならば、時間は掛かっても新しい道は開けると思う。
 でも今のような「日本サイコー」とか「普通の日本人」とか言っているならば、平成と同じ停滞の時代を続ける事になるだろう。そしてどこかで根本的にクラッシュしてしまうだろう。

<参考リンク>

未来予測2019 〜平成という停滞の終わり〜

Sex Pistols Bodies 和訳

2019年3月17日日曜日

「けものフレンズ」 〜ユートピアの思考実験〜

1.はじめに

このテーマはいつか書こうと思いながらもついつい面倒で放置していた。理由は以降で述べるような「このぼんやりとした感覚」が上手く文章にできるか自信が無かったからだ。
 だけど今日は何だか無気力で何もやる気が起きず、結果としてやる事がない。だから不意にずっと放置していたこのテーマを言葉にしてみようという気になった。
 ちなみにここで示す「けものフレンズ」は、たつき監督が作ったシーズン1であり、シーズン2の「けものフレンズ2」ではない。私は2を見た事ないしまだは見る予定もない。


2.けものフレンズという世界

けものフレンズは私にとって、とても不思議な作品である。一見すると子供向けの愛らしいお話でありながら、同時になにか人間の深淵に近づく真理を含んだ寓話のようにも見える。

 あの作品を寓話のように感じてしまうのは、あるいは私ぐらいなのかもしれない。それに私だって常に寓話としてみているわけじゃない。あのポジティブでポップな世界は眺めているだけで楽しいし癒されもする。
 だけど楽しいと同時に、私は心のどこかで常に「ユートピア」のイメージがキーワードのように繰り返し湧き出てくる。そう、私にはいつもあの作品が「ユートピアを再現しようとする思考実験」のように見えるのだ。

 「ユートピアの思考実験」

 そう感じるのは、おそらくけものフレンズで描かれた世界が、私が『無意識に思い描くユートピア』にとても似ているからなのだろう。
 そしてもうひとつ理由を挙げるならば、あの作品の極端にシンプルな世界観がそう思わせるのだろう。普通の多くのアニメ作品と違って、けものフレンズの背景はとてもシンプルである。まるで神話のように。

<背景>
 ・時代は? =いつか
 ・場所は? =どこか
 ・主人公は? =だれか(記憶喪失)
 ・登場人物は?=いろいろ

 全てがこんなノリで作られている。登場人物のほぼ誰一人を取っても、その背景やドラマみたいなものは見えてこない。もちろん設定が無い訳ではない。ただあっても物語の中でほとんど重要性が無い。
 例えばサブ主役のサーバルだって、たぶんサーバルキャットから進化したフレンズだろうという以外はほとんど背景がない。あったとしても物語に影響しない。

 「もともと世界はそういうもので、そんなものなんだよ。」そんなナレーションが聞こえそうだ。

 これはあたかもムスリムの「インシャラー(神の御心のままに)」とか、仏教徒の「諸行無常」にも似ている。全ての物は『ただそこにある』それに理由は必要ない。理由はあっても良いし無くても良いのだ。そう言われているような気分になる。

 またそこに暮らすフレンズ達の行動も極めてシンプルだ。彼らはただ彼らの思うがままに生きている。一日中遊んでたり、日向ぼっこしてたりと自由で気ままだ。誰にも支配されないし争いもない。でもだからと言って怠けている訳でもない。好奇心や向上心だってある。例えば喫茶店をやりたい行動するフレンズや、もっと上手に歌を歌いたいと練習するフレンズもいる。

 そう、この世界はずっとぼんやりと心の何処かで想像していた「ユートピア」そのものなのだ。


3.ユートピアの思考実験

私はあのアニメを見ながら「ああ、そうか、こういうのがユートピアなのか」とよく考えた。そしてさらに、
 ・ユートピアとは何か?
 ・なにがユートピアの条件なのか?
といった問いが無意識的に湧いてくる。例えば次のようなものだ。

1)ユートピアとは

けものフレンズ的に言えば「生存を脅かされず自由に生きる」となるだろう。フレンズはいつでも自由であり、創造性や好奇心を持ち続けて生活している。

2)ユートピアの条件

(1)生存の条件
 ジャパリパークでは気候が完全にコントロールされており、またどこからか出てくる謎の食料「じゃぱりマン」のおかげで飢える事がない。とてもシンプルだけど生存に最低限必要なものがシステムとして提供されている。

(2)ユニークな存在
 ジャパリパークには同じ種類のフレンズは存在しない。だから全員がそれぞれ別の生き物であり、ゆえに全員が個性的でユニークな存在となっている。このために優劣とか上下という概念が存在しない。なのでフレンズ達はお互いに「君は〇〇が得意なフレンズなんだね」と言った感じで超ポジティブだ。
 世界の認識を否定からじゃなく肯定から始める。誰もが異なっている世界、ゆえに誰もが何か独自の物を持っていて尊敬される世界。このポジティブな世界観こそが、もっともけものフレンズらしさだと思う。

(3)距離がある(なわばりの広大さ)
 フレンズどうしが争わないで済む理由のひとつはジャパリパーク(環境)の広大さである。フレンズは人間のように多くなく、また密集して暮らす習慣も持たない。ゆえにそれぞれのフレンズは十分に自由に行動できる縄張りを持って暮らしている。これはシンプルだけど案外に重要だと私は思う。

 もしも人類が今の1/1000か1/万として、お隣さんに会うのに数キロ出かけるとしたら?

 そんな想像をしたことがある。もしそうならば、もっと皆んなと仲良くなれたかもしれない。たまにしか会えない人と争いたいとは誰も思わないだろう。むしろ人恋しくて誰かに会えばハッピーで優しくしたくなると思う。ジャパリパークにはそういったお互いを尊重するだけの十分なスペースがある。

(4)進歩しない世界
 フレンズ達はそれぞれ自由に暮らしていて、生活そのものを遊びのように楽しんでいる。なので生産性をあげようとか、生活を改善しようとかほとんど考えていない。なぜならば水を飲みに数キロ出かけるとしても、その行為そのものを楽しむからだ。あたかも散歩と同じように。
 つまり彼らは「カイゼン(改善)」から解放された者達だと見ることもできる・・・これは超重要かも。
 本当の所を言えば我々は別に「改善」や「進歩」なんかする必要はない。しなくてもいいのだ。

 よくある熱血アニメや物語で「人類の絶え間ない努力・・・」とかあるけど、それはやりたい人が勝手にやればいいだけだ。別にしないといけないわけじゃない。ありのままの世界を、ありのままに受け入れる生き方だってある。

 これは別に詭弁ではない。旧約聖書に描かれた「エデン(楽園)」はまさにそういう場所だった。そして色々な宗教や神話に描かれる「ヘブン(天国)」の様な場所も概ね似たようなものだ。
 「進歩しない世界」という言い方はていないが、同じようなモチーフは多くの物語でも何度も繰り返し利用されている。そして私の知る限りでは、これ以外のヘブンは存在しない。

 ただ逆にこの「進歩しない世界」はデストピアとしても多くの物語に描かれている。究極の世界とは、究極であるがゆえに進歩を止めた世界でもある。そこをどう受け止めるかは各々によるのだろう。


4.ユートピアの影

私がけものフレンズを優れた作品とし感心する理由のひとつは「セルリアン」という存在だ。セルリアンはまさにけものフレンズの神話的な世界にリアリティを与える重要な要素となっている。
 物語ではセルリアンは謎で意味が解らないものとして描かれている。でも私にはセルリアンとは「悪意」の象徴のように思える。

 光あれば影が必ず生まれる。ホワイトホールはブラックホールから形作られる。それと同様にジャパリパークという光が溢れる場所から追い出された「無意識的な悪意」がセルリアンであって、それは定期的に現れて住人たちを脅かす。
 だがセルリアン自体も「ただあるがままに存在する物」であって、本質的に「悪」の存在ではない。彼らは恨みをもってフレンズを襲うのではなく、ただそう定められているだけなのだ。セルリアンはそういう謎の存在として実に上手く描かれている。

 セルリアンの存在は必然である。例えどのようなユートピアを作り出そうが必ず存在する。そしてそれに対処する方法は、きっと恐れずに立ち向かうことなのだろう。ふだんはバラバラで気ままに暮らしているフレンズが、巨大セルリアンの登場で一致団結して立ち向かう。あれこそが理想的な対応なのだと思う。


5.おわりに
 色々と述べたけど、私はこの作品が細かい理屈など抜きに大好きだ。だが同時に、見るたびに書いてきた様な「ユートピア」という物について考えさられる。

 果たしてたつき監督はこれを意図して作ったのだろうか?

 もしもそうなら想像を絶する天才だと思う。だが別にそうであってもなくてもかまわない。生まれたのが偶然だろうがなんであろうが、この作品の素晴らしさは変わらない。

 そして、だからこそ私はシーズン2「けものフレンズ2」を見る気になれないでいる。ここまで私が書いてきたような事がシーズン2で描かれているはずはないからだ。
 きっとシーズン2は「可愛いフレンズが登場して、みんな仲良し!」みたいな作品になっているのではないかと想像する・・・。だがそれは別に悪いわけでもないだろう。でもそれは私が続きを見たかった物語ではない。私が見たかったのは、あくまでも「ユートピアの夢」のその続きなのだから。

<p.s.>

ユートピアの条件に対してもうひとつ加えるならば。「男が存在しない」という部分も挙げられる。だが誤解しないで欲しいのは、これは別に男性が野蛮で凶暴だとかいうような話じゃない。
 そうではなくて、フレンズは性別を超えた存在だという意味である。つまりは天使のような存在だ。
 私達は生まれ落ちた直後から、性別というステレオタイプにずっと苦しめられながら成長する。思うがままに行きたくても「男らしくあれ」「女らしくあれ」と言ったステレオタイプに妨害されて自由に生きられれない。
 だがフレンズにはそんなステレオタイプは存在せず、ただそれぞれが自分の欲するままに行動している。ゆえにジャパリパークはジェンダーにとってのユートピアでもある。


<参考リンク>

けものフレンズ (アニメ)

2019年2月27日水曜日

がっかり映画評「アリータ バトル・エンジェル」(ハリウッド版「銃夢」)

1.はじめに

まず始めに言っておかなければならない事がある。それはこの映画評がネガティブ評論であって、おそらく私は容赦無く作品をこき下ろすだろうという事だ。当然ながらその過程でネタバレもあるだろう。なので、もしも貴方が「もう既に予約した」とか「見に行く約束をしちゃった」ならばこれ以上読むのをやめるべきだ。そして映画を観終わってから、もう一度ここへきてこの記事を読むと良い。そうすると記事の共感できて多少は救われるだろう。

 またくれぐれも言っておくが、映画の前に原作(漫画)を読もうなどと決して考えてはいけない。それはもっての他の行為だ絶対にしてはならない。きっと後悔するだろう・・・。それだけは強く警告しておく。


2.ストーリ解説(ネタバレ?)

このアニータの原作は「銃夢/木城ゆきと」という日本の漫画である。ざっくりとストーリーを述べると、舞台は近未来でサイボーグ技術が発達しており、なお過去の戦争で体制が崩壊して地上にあるスラムで多くの人が暮らしているという設定である。主人公(アニータ:サイボーグ)はスラムのゴミの中から仮死状態になっているところを医師に拾われる所から話が始まる。彼女は医師に救われるが記憶喪失だ。だがスラム街で戦いに巻き込まれる事から徐々に記憶を取り戻してゆく・・・と言った話である。(ざっくりと映画版を説明するとこんな感じ)

 それで・・・、ここからがクレームなのだけど、まず誤解が無いように述べるが私は決して「原作厨」ではない。むしろ監督がストーリーを新解釈して広げてくれるのを期待してる方だ。だがこの映画のストーリーはとても残念な出来としか言いようがない。

 その原因は何か? 原作に忠実じゃないからか? 確かにそれもある。でも実のところこの映画はそれほど原作を完全無視しているわけもはない、個々の人物設定やイベントシーンは原作と同じ部分も多い。でもそれが全部台無しになっている。

 原作の漫画は読めばわかるけどかなりハードなサイバーパンク作品である。そして主役の少女も激しい炎のような気性の人物としてが枯れてある。その他の登場する人物や世界ももっとはるかに複雑で深みがある。どっちかというとかなり硬派なSF作品だ。
 でもそれが映画版だとそれが台無しになって、ただの安っぽい「美少女格闘」モノになってしまっている。確かにバトルシーンとか映像は頑張ってるの解る。(ただしどこかチャラい) 例えるならば、せっかく本場のインドカレーが食べたくてレストランへ来たのに、出てきたのがボンカレー(しかも甘口)みたいなものだ。大いに私は失望した・・・。

 おそらくこれは原作のカッコいいシーン(バトル映えする場面)を拾い集めて、良いとこ取りしようとしすぎたせいだと思う。バトルシーン映えをメインで意識しすぎたおかげで、個々の人物の背景や情念などの深い設定が無くなってしまっている。なので溜めて溜めて怒りが爆発するとか、主役の深い苦悩とかがもうひとつ伝わらない。
(ちなみに原作とイベントの前後関係が異なる部分も多い。例えばモータボールを始めるのはユーゴが死んだ後だ等。そういうのが積み重なって背景の説得力が薄れている)

 この「軽い美少女格闘映画じゃないか」と私が批判しする部分だけど、この代表的な部分が主役の名前が「アニータ」という部分である。原作だと主役の少女の名前は「ガリィ」で、助けた医師(イド)が前に飼っていたオス猫の名前という設定になっている。こっちの方がはるかにこの物語の世界観や背景に合っている。
 主役は鉄くずのゴミのなかでたまたま拾われただけの存在で、可愛らしさも何もない男のような名前をつけられる。でもこの鉄のような響きの名前だからこそ、どことなく世界の異端であり同時に叛逆のシンボルへとなってゆく。そういうのが全部無くなってしまっている。
 その代わりに映画では主役は「アニータ(由来:悲しい、優雅な、甘くて苦い)」という少女らしい名前になっている。もう暗黙の雰囲気や設定がすっかり消えている。さらに拾った医師の死んだ娘の代わりみたいな、どこにでも転がってそうなメロドラマ的な設定が付随している。もうこれだけで大違いだ。

 似たような部分が他にもいくつかあって、人物や背景設定が軽くなって説得力がなくなってしまっている。どうも物語やイベントが安易なご都合主義でつなぎ合わされたように思えてしまう。


3.映画評・クオリティ

では映画全体の出来(クオリティ)としてはどうだろう。ストーリーにはダメだししたが他はどうか。

 ストーリーが軽いと散々言ったが、物語のテンポや展開などはスムースでそんなに悪くない。一応にエンターテイメントとしての質はなんとか保っている。そこはきっと腐っても名監督だしハリウッドの力なのだろう。バトルシーンは結構頑張ってていい感じに仕上がっている。
 だがストーリーが軽くなったせいか各俳優の演技も軽くなってしまってる気がする。ダメだしとまではいかないけど、名演技とかそういうのは無い。まあ普通やな・・・みたいな感じだ。

 ちなみに主役の少女はフルコンピュータグラフィックなのか、ちょっとアニメっぽくなりすぎてる気がする。アニメ
のような躍動感もないし、人間のような繊細さもない。どこか中途半端な感じがする。なので原作にあるような主役の極めて繊細でかつ大胆で勇敢、激しい感情などがうまく表現できてないように思う。

 あともうひとつ思ったのは原作の話をおかしな形に歪めてしまっているので、続編は作れないだろうな・・・とも思った。原作だと続きの物語部分にも見せ場がたくさんあって続編やればいいと思うのだけど、重要な設定を歪めているのでそのまま利用できない。これもひとつの失敗じゃ無いかと思う。


4.まとめ

色々と言ったけど要するにこういう事だと思う。
・「この映画は世間にあふれる、ただの美少女格闘映画じゃないの?」
・「これだったら原作があの”銃夢”でなくていいんじゃない?」

 なので、もしも私がこの映画の原作(銃夢)を知らなかったなら。そして、ただのキャメロン新作のサイバーパンクSF映画として観たならば、ここまで酷評はしなかっただろう。やっぱり根本的な問題は「あのサイバーパンクの名作「銃夢」を映画化」とさんざん言ってきたのに、内容的には別に銃夢でなくてもいいじゃない・・・になっている所だろう。原作レイプとまでは言わないけど、やっぱりがっかりだな。

 さいごにこの映画評を書いた動機を言わせてもらう。じつのところ私は今まで今回みたいなネガティブな映画評を一度も書いたことがない。それはわざわざつまらなかった映画の記事を書くのなんて面倒でやる気がおきないからだ。これまでは全て良い映画で是非多くの人に観てもらいたいと思って書いてきた。

 では今回はどうしてわざわざ記事を書いたかというと・・・それは私が本物の原作「銃夢」のファンだからだ。しかもキャメロン監督の映画は好きだった。なので観るまでものすごく楽しみにしていた。ゆえに映画を観終わってなんとも言えない行き場のない気持ちで胸がいっぱいになった。そしてこのやり場のない気持ちを発散させるために記事を書いた。
 おそらく私と同じような想いを抱いている人間もたくさんいるだろう。多少でもそんな人たちの慰めになれば幸いです。


5.余談

実をいうとこの映画が私にとっての初めての本格3D映画だった。(かなり今更なのだけど)実は作品以外にもその点もちょっと楽しみのひとつにしていた。
 初めて観た3Dの感想は・・・、確かに立体感はあるけど少し目が疲れる。あとはそんなに凄いと言うほどでも無いように思えた。どうもシーンによって3Dが冴えるかどうかが明確に分かれるように思う。
 私がみた感じだと、3Dは広い場所(空の風景)とか見渡す視点でないともうひとつ冴えない気がする。例えば空に浮かぶ空中都市(ザレム)の姿は奥行きがあって美しい、そしてビルの屋上から地面を見たシーンはすごくリアリティがある。だけど室内バトルみたいなものは、風景の奥行きが足りないせいかそれほど映えないように思う。
 なので、おそらくキャメロン監督の「アバター」(観てないけど)とかの方がそういうシーンが多くて見応えあったんじゃないかなと思う。

 最後に、私はキャメロン作品はすきだった。だけど今回の映画は色々とイマイチで正直「見損なったぞキャメロン」と言いたくなる。アビス、T2やエイリアン2とかは良かったのにな・・・。


<参考リンク>

アリータ バトル・エンジェル

2019年2月22日金曜日

日本の「ジャスティン・トルドー?」 ー CCSと地震の関係ー

 日本の社会や政治の話題になった時にふと頭をよぎる事がある。それは日本にも「トルドー(カナダ首相)」や「メルケル(ドイツ首相)みたいなトップがいたらいいな・・・というぼんやりした願望である。

 メルケルは科学者出身で論理的かつ強い信念の持ち主だし、トルドーは若いが知的でどんな記者の質問にもすぐに適切な答えを返すとと評判である。ある時、AIに関する高度に技術的な質問が記者からあった際にも即答して記者を感心させたという。イケメンなだけではなく相当な知能の持ち主でもあるらしい。
 まあそこまで贅沢は言わない。だが一方日本はと言えば、安倍総理は即答どころか事前に問い合わせがあった質問にしか答えないし、かつ答える内容は全て事前に用意されたカンペを読むだけである。そしてたまに事前準備がない質問があったりすると意味不明な回答をする・・・。
 トルドーと比べるのは気の毒かもしれない。でもせめてカンニングペーパーなしに話が出来る人物がトップであって欲しい、そう願うのは別に贅沢な願いじゃないだろう。


 トルドー、トルドーとなんども繰り返すが実はべつにトルドーに関するニュースがあったわけじゃない。これはたまたま見たニュースを見て私がさっきまでの話を思い出しただけの話だ。しかも一見まったく関係の無いニュース。それは鳩山元首相による北海道地震はCCSによるCO2の地下貯蔵計画が原因だという記事のことだ。

 最初にTwitterでこの鳩山氏の発言を見た時に、正直私も「???」「何を言い出すのだこいつは?」と思った。そして案の定、ネットでは元総理がカルトな陰謀論をいきなり言い出したと話題になった。詳しくはみてないが、おおむね「やっぱり鳩山はアホだ」という論調のようだ。
 まあそう思うのも無理はない。以前に東北大震災の時には今はなきチャベス大統領が地震はアメリカの気象兵器「HAARP」が原因だと言い出して騒ぎとなった事がある。なので余計にみんな「何を言ってんだこいつ!!」となったのだろう。正直わたしもまず最初にそう思った。
 だけど鳩山氏はいっけん唐突な事を言うアホに見えるが、実はなかなかのインテリである。私はそれを思い出して彼が指摘するCCSについて少し調べてみた。

 私も初めて知ったのだがCCSとは、温暖化対策としてCO2を地下に閉じ込める計画であり、岩盤のしっかりしたところにCO2を圧縮して送り込んで閉じ込めるものらしい。そして実際に震源の近く(苫小牧)にCCSの計画がり、スケジュール的にも2016〜2018年にCO2の注入、現在はモニタリング中となっている。確かに条件的には色々と一致する。ちなみに鳩山氏は他にも同様の事例、長岡で当初行われていたが中越地震で中止となり、またいわき市沖でもあったが大地震で中止となったと述べている。これは別に嘘ではなく確かに過去に大地震が発生した地域でCCS実験は行われていたようだ。

 ちなみにCCS実施計画を説明しているサイトをみると、そこには環境への影響や地震などの状況についてはモニターをしている事などが記載されていた。まあこれは当然のことだろう。これを見ていて私は過去に聞いたアメリカのシェールガス採掘に関するニュースを思い出した。
 シェールガス採掘は地下深くに強い水圧をかけ、岩盤を破壊してメタン化したシェールガスを抜き取る技術である。私が見たニュースでは工事による環境破壊への懸念が取り上げられていた。当時具体的に指摘されてたのは地盤沈下、微震、あとガスが水道数に混じってしまうというものだった。CCSと似た作業を行うシェールガスでも地震や環境への影響は当時から懸念されていた。
 ましてや日本は世界一の地震地帯である。CCS作業が地震に影響しないのかという懸念を持つのは当然のことだろう。なので鳩山氏が言っていることは別に荒唐無稽なわけではない。なお私の目からみてもまず2つの疑問が生じる。

(1)CCSは大地震の発生に無関係なのか?
(2)大地震発生後も同地区でCCSを継続するのは妥当なのか?

 おそらく(1)については照明が難しいだろう。政治的にもまた利権でごちゃごちゃしてそうだ。それを除いたとしても技術的にそもそも立証が可能かどうかわからない。でも少なくとも(2)は当然ながら検討するべき事柄だ。CCSの様な作業をするには、当然ながら事前に地震や岩盤などの入念な調査して場所を選定しているはずだ。今回はその近辺で大地震が起きているのだから、あきらかに前提が覆ったと推測される。なので当然ながら調査や検討が必要となるなはずだ。
(何かすでに調査しているのか、政府にやる気があるのかなどは知らないけど)

 ちょっと調べただけでもそんな感じなので、今回の件は鳩山氏が問題提起をするのは当然だと思うし、科学的な検証作業が必要だとも思う。だが暫定口調で煽っている理由は解らない。ひょっとしたらずっと懸念が無視された経緯があって、あえて挑発したのかもしれない。

 ちなみに、なんで私が今回の件で鳩山氏の話に興味を持っと少し調べようと思ったかというと「鳩山内閣」の事を思い出したからだ。昔から鳩山氏って良い人っぽいと言われているが、同時に「宇宙人」と冷やかされるぐらい突拍子もない事を言うと評判だった。実際に私も同様のイメージをもっていた。少なくとも彼が2010年に総理をやっていた時はそうだった。当時の私には彼のビジョンはまったく理解できなかった。
 でもその後数年たって、あの時に突拍子がないと思っていた鳩山のビジョンは実は現実的だったのではないかと思うようになった。非常に大雑把なイメージだけど鳩山は初めて冷戦崩壊後の新しい方向性を出した日本の政治家だったのではないかと今では思う。だけどそれは叶わなかった。そしてその後に(当時は無理だろうと思っていた)方向へ舵を切ったのは日本ではなく韓国だった。全てが後付けだけど私にはそう思えた。そんな経緯があったから頭ごなしに鳩山はアホであるとは思えなかった・・・。

 で、ここからが本題だけど、なんでトルドーが出てくるかというと・・・。

 ずっと私が願っていたトルドーのような政治家とは、実は日本で言えば「鳩山由紀夫」だったのではないか? 急にそんな考えが頭に浮かんできたからだ。
 インテリで教養人でありかつ理想家で大胆な発想をする。もちろん若いとかハンサムだとか他にもトルドーの魅力は色々ある。だけど実はトルドーに最も近かったのはよく知っている鳩山だったではないか? その考えは私にとっても衝撃だった。そして考えさせられた。

 ひょっとしたら確かに鳩山はトルドーだったのかもしれない。でも仮に本物のトルドーが日本に居たとして、私たちは彼をトップに選んだのだろうか?
 私にはそうは思えない。きっと私たちは鳩山と同様に「宇宙人」だの「能天気なボンボン」だのと揶揄してトップに選ばなかっただろう。そして結局のところは、やっぱり「安倍」を選んでいたのじゃないかという気がする。
(少なくとも私の脳内シミレーションでは何回やってもそうなる)

 これは(ただの妄想だけど)ちょっと私にはショックな出来事だった。人材がない人材がないと言いながら、実は我々が選んでないだけなのかもしれない。なんだかんだと言いながら結局はわかりやすい人、ときには分かっていながら下衆をトップに選んでしまうかもしれない・・・。なってこったい!!

<P.S.>
 地震とCCSの因果関係については率直に言うと私には解らない。ただ確かに偶然だと済ませられない気はする。ただしこれはあくまでも私の率直な感想でしかない。本格的に考える能力も時間も気力もない。これ以上は何とも言えない。
(ただもしも、多少なりとでも因果関係があるならば、これは確かに途轍もない大ごとだ)


<参考リンク>
北海道地震、鳩山元首相の「人災」発言が物議…CO2地下貯蔵で人工的に起こされたと主張
地下3000メートル!「CO2貯蓄施設」の実態
苫小牧CCS実証試験 ースケジュールー

2019年2月21日木曜日

映画「金子文子と朴烈」 〜歴史のリアリティ〜

1.はじめに

映画「金子文子と朴烈」を見てきた。なかなか良い映画だったし考えさせられた事もあった。なので久しぶりに映画評を書く事にする。なお私は映画評をまだ観ていない人の為に書いているので、ストーリーなどはネタバレしない程度に紹介して見どころやどう感じたかを率直に記載する事にする。


2.ストーリ解説(ネタバレなし)

まずこれは大正時代の日本で起きた実際の事件元に作られた映画です。時代は1923年関東大震災が起きた年の東京。そこで日本帝国政府への抵抗をしている朝鮮人の朴烈と日本人の文子が出会う部分から話が始まる。
 当時は朝鮮半島から日本へきた朝鮮人が多くいて、彼らは帝国政府による支配や圧政に対して不満を抱いていた。朴烈もそのような青年の1人であり帝国政府に対する抵抗をしようと計画していた。
 朴烈らはどこにでもいそうな革命を夢見る若者である。だがそれが関東大震災とその後に起こった朝鮮人虐殺事件により大きく運命が代わる。帝国政府は震災後にヘイトを煽ったうえで朝鮮人の虐殺を黙認する。そしてそれが大事になりそうだと気がつくと、朴烈ら朝鮮人を捉えて彼らの暴動や革命を未然に防いだ事にして虐殺をもみ消そうとする。そんな中で捕らえられた朴烈は、逆に裁判を利用して多くの人々へ支配の残虐さと理不尽を訴えようとする。


3.映画評・クオリティ

まず映画のクオリティだけど、実はこの映画を観てすぐに驚いた事がある。それはこの映画が日本語で作られていることだ。もちろん日本語といっても主人公が在日朝鮮人なので韓国語の会話シーンも多くあってそこには字幕がつく。
 私は韓国映画だから字幕が当然だと思っていた。なので初めは「えっ吹き替え版作ったの?」と驚いた。でも実はそういう訳ではなく最初から史実に忠実に作った結果のようだ。(日本で起きた事件なので忠実であれば当然は日本語メインになる)
 これは何気ない事かもしれないけど、正直言って私はまずそのプロ意識の高さに驚いたし感動した。

 このドラマは虐げられる立場にあった朝鮮人青年の目線から見た当時の日本帝国の話である。だから主人公が差別を受けたり酷い目に合わせたりと言った悲劇的な話である。でもテンポの良さと登場人物の生き生きした表情とユーモアで笑顔になるシーンもたくさんある。重いテーマを扱っているが暗い映画になってない。これは後から気がついたけどちょと凄い事で極めてクオリティの高い映画の証明だと思う。
 なぜなら物語は日本帝国時代の闇、差別や虐殺などの重いテーマについても正面から取り組んで描いているからだ。そこには数々の悲劇が見え隠れするし、人間の醜さもある。だが主人公の朴烈と文子の明るさや率直さなどが暗い雰囲気ではなく、時には笑いをそして勇気づけるような形で描かれている。なので後味が悪い映画にはなってない。むしろ見終わった時に、どこか勇気付けられたようなポジティブな気分になっている。

 あと率直にすごいと思ったのは韓国俳優のレベルの高さだ。日本人役もほとんどが韓国人なのだが素晴らしい演技だ。中でも憎まれ役の内務大臣(水野 錬太郎)は怪優だな。ちょっとイかれた雰囲気などが最高で映画を引き立ている。個人的には判事(立松 懐清)が好きだなった。どこか透明感があるような不思議な雰囲気が出ててドラマが不思議とドロドロしてないんだな。
 いや正直言って「韓国映画のレベルってめっちゃ高いやん」と驚かされた。


4.私が感じたこと「歴史のリアリティ」

映画そのものはクオリティが高くて安心していろんな人に勧められる内容だと思う。ただ近年は歴史認識だの何だのと民族的なヘイトが高まっていて、日本人の読者ならばその辺りも気になるところだろう。この問題はだんだんエスカレートしつつあり、直近でも「韓国レーダー照射問題」があったところだ。ちなみに私も日本人で、まずは率直に色々な歴史認識問題に対する考え方を説明しよう。

 例えばよく炎上する部分、大日本帝国時代の朝鮮侵略〜満州国〜敗戦と朝鮮半島の分割という悲劇など。私は一般教養的な事柄は知っているつもりだが、特に歴史に詳しいというほどでもない。そして特に右寄りでも左寄りでもないつもりである。だが歴史改竄などの誤魔化しには反対で、ゆえにネトウヨ達が慰安婦を非難したり南京虐殺が無かったなどと述べるのは許容できないし怒りを覚える。
 
 ちなみにネトウヨは大日本帝国と自分達をあたかも同じかのように同一視し、ゆえに都合の悪い歴史否定しようとする。だが私は逆で、私たちは大日本帝国とは違うと考えており都合の悪い歴史を隠そうとは思っていない。なぜならば「大日本帝国の連中と私たちは違う。私たちは虐殺などを繰り返したりしない」と自信を持って言うつもりだからだ。
(でも最近日本社会がヘイト化してだいぶ自身が無くなった・・・。あれっ俺たちは進歩して無かったの?みたいな)

 私はそういう立場なので歴史改竄など考えないし黒歴史も気にしないとずっと考えていた。だがそれでも映画に出てくる朝鮮人虐殺のシーンは、そのあまりにも理不尽さに、そして醜さに、さすがに胸の痛みと共に複雑な気分となった。でも同時に「ああっそうだったのか」とひとつ気が付いたことがあった。

 それは「これこそがが歴史のリアリティなのか・・・」と強く感じたことだ。

 例えば私は関東大震災後に起こった朝鮮人虐殺のエピソードについては知っていた。あの「15円50銭」というセリフについても。

 でも実際に映画のシーンで見た時、知識ではなくそのあまりの理不尽さに胸が痛んだ。

 つまり私は朝鮮人虐殺を例えばテストの答えのように覚えていただけなのだ。そこには実際に生身の人間が傷つく事への実感が欠けている。生身の人間が傷つくことやその悲哀を目にする事は大きく違うのだ。それが改めてよくわかった。ちなみに映画に出る虐殺シーンはそれほどグロいものではない。だがその理不尽さや恐怖とやるせなさと言えば・・・。きっと私はもう忘れないだろう・・・。

 そして同時に解った事がある。それは私にとって日本の歴史がどれだけ薄っぺらくてリアリティが無いということ。そして逆に韓国や北朝鮮の人たちにとってどれだけ生々しいリアリティを持っているかということだ。

 私もそうだけど多くの日本人は自分たちの歴史に興味はないと思う。大河ドラマや映画で楽しむ事はあっても、時間をかけて学んだり知ろうとしたりはしないだろう。日本国内で歴史の知識を必要とされる場面はほぼない。私たちは生まれた時から何もかもがずっと同じだったかのような顔をして生きている。

 だが韓国人たちは違うのだろう。彼らは定期的に歴史を思い返しあるいは反芻して「本当にこれで良かったのだろうか?」と自分に問いかけながら生きているのだろう。それはこの映画を見てて何か私にも解った気がした。そしておそらくそれは必要で重要な事なのだろうということも。当然、私たち日本人にとってもだ。

 私たち日本人は歴史を知らない。つくづくそれを実感する。それは「良いことも」「悪いことも」その両方とも知らない。知っているのは血の通ってないとても薄っぺらいことだけだ。例えるならば「日本昔話」ぐらいの薄っぺらさだ。だけど韓国はこの映画で彼らの歴史があたかも「ドストエフスキーの小説」並みにぶ厚いことを示してくれたように思う。
 それを実感するのは、どれだけ今までの記憶を思い返しても歴史に触れたり学んだりした記憶が見つからないことだ。

 いちおう子供時代に平和教育とか反戦教育はあった。だがそれにどれだけリアリティがあっただろう。それらを人間のドラマとして理解した事があっただろうか?

 かろうじてリアリティを教えてくれたのは学校ではなく漫画や文学などの作品だ。例えば「はだしのゲン/中沢啓治」は最も最初に出会った歴史であり戦争や人間のリアリティだと思う。あれが無かったら私もネトウヨ並みに軽かったかもしれない。
 あと子供向け文学だけど「戦艦武蔵の最後/渡辺清」はとても印象に残っている。いま思い返すと凄いけど、子供向けと言いながら手足がちぎれて泣き叫ぶ人間の姿とかが容赦なく描かれていた。
 もしもそれらの作品に合わなかったら戦争の理不尽さを、そして歴史として振り返る重要さを少しも理解する事は出来なかっただろう。

 リアリティといえば、あともうひとつだけ常に思い出すちょっとした出来事がある。それは私が高校生で剣道部だったころの話だ。あるとき私は友達と3人で試合会場へとタクシーで向かっていた。運転手は私たちが持っている防具や竹刀をみて話しかけてきた。
 「にいちゃん達がやっている竹刀の稽古で人が切れるか?」
 「俺は昔、朝鮮で切った事があるよ」
 私たちはほぼ無言で目的地についてタクシーを降りた。なんだかとても嫌な気分だった。それでさっきの会話は何が嫌だったのかという話題になった。結論はあの運転手の口ぶりだった。あの時の運転手はなんだかとても嬉しそうに人を殺してきたと(自慢っぽく)話をしたのだ。それがすごく不快だった。でも今にしてみればこれもひとつの戦争のリアルだったと思う。

 第二次大戦とその敗戦は、学校では悲惨な戦争の悲劇として語られる。だがそこにはあのタクシー運転手のように殺人を、ひょっとしたら虐殺を楽しんでいたかもしれない人もいただろう。私はそれをあの経験から理解する事ができる。やっぱり私たちはもっと前の時代に何が行われて何が起きたのかを知っておくべきなのだ。

 私たちは自分らの歴史を知らない。これはグローバル化した時代には結構な痛手だ。私たちは薄っぺらい試験問題のようなリアリティしかもってないのに、そんな状態で例えば海外へ仕事に行ったり移住しなくてはならない。それはガリ勉しかした事のないもやしっ子が、いきなりジャングルでサバイバルしろと言われるようなものでとても不公平で理不尽だ。

 原因は色々とあるだろう。でも最大の原因は、きっと悪い事や面倒な事は忘れたかったが為に黒歴史を語らなかかったからだろう。だがそうやって暗い面を消し去ったおかげで、本来の明るい部分までがリアリティを無くしてしまった。

 平たく言うと、私たちの持っている歴史書は「水戸黄門」ぐらいに軽いよと言う事だ。近年はネトウヨ的な歴史修正主義者が熱心に日本史なるものを作ろうとしているようだが、それらはきっと最近流行りの異世界転生物のラノベぐらいの重さだろう。


5.最後に

まあ色々と思いが巡ったけど結論を言えばこの映画は面白かったし見てよかった。ひょっとすると歴史認識がどうのとかを気にして見るのを躊躇う人がいるかもしれないけど、そんな細かい事をごちゃごちゃ考えずに「ただの名画」だと思ってみればいいと思う。
 それでもまだ躊躇うのならいっそこれは別の国の話だと思って観ればいいだろう。その方が自分に正直にドラマを感じる事ができる。

<P.S.>

 この映画は最近の日韓関係悪化の中で公開された為に、人によってはかなり日本に厳しい、あるいはヘイト的な作品と想像する人がいるかもしれない。でも私的な見解を述べると、映画全体を通して日本人に対してかなりポジティブな視点で描かれていると思う。

 例えば冷酷だった看守(日本人)が文子のそれまでの体験を知ることにより、文子や朴烈に対して同情的になってゆく。また検事(日本人)の取り調べも民族差別を超えて真実を知ろうとする信念が感じられる。そして二人を弁護する弁護士は国を超えて正義を追求しようとしている姿が描かれている。
 つまりここに描かれた日本人は永久に理解できない者ではなく、お互いを知ることで理解しあえる。そういう可能性を持った存在として表現されている。

 たとえ民族の違いや歴史の闇があったとしても真実を知ろうと努めればいずれは必ず理解しあえる。

 言葉にはされてないが、そういったポジティブなメッセージが映画に込められていると私には感じられた。

<余談>

この映画は本当に韓国映画のクオリティの高さに感動した。また同時に残念ながら日本映画はこんな優れた作品を作れないのではないかとも思った。もしもこのテーマを日本映画でやったら、きっとただの「投獄という特殊な環境で燃え上がる男女の恋」みたいなメロドラマになっただろう。それはあるいは歴史修正よりも酷い冒涜かもしれない。

2019年1月1日火曜日

未来予測2019 〜平成という停滞の終わり〜

1.はじめに
 毎年恒例の未来予測を書く時期がついにやってきた。ちなみに未来予測といっても株価や経済の未来を占うといった実務的な観点からではなく、むしろ逆に文学的に今目の前に見える世界をどう読むかといったような「あの当時はこう感じていた」「こんな風に世の中が見えていた」というのを率直に書き綴った日記のようなものだ。
 当たるも八卦当たらぬも八卦だけど、ここずっと数年はネガティブな予測が多いからむしろ外れてくれた方が良いだろう。なので私も気楽に書くし、気楽に読んでみて貰えたら幸いかな。


2.平成の終わりに思う
 来年でちょうど30年ほどだった平成は終わる。元号自体にはそれほど思い入れはないけど、平成30年(2018)の締めくくりの年ははとにかく災害が多かったので何らかの因縁を感じて、はたして平成とは何だったのかとか考えさせられた。そして選んだ平成のキーワードは「停滞」だった。

 ここ2、3年だが、私は日本というのがここ10年ぐらい何も変わってないのではないか・・・と度々考えるようになった。それは日本社会が内向きになって「クールジャパン」「日本凄い」みたいな話題がTVに溢れ、その反面に世界から遅れている事を恐れる気持ちの裏返しのように、ヘイトやデマ記事が多く見られるようになったからだ。なかでも特に中韓に対する蔑みの感情(むしろ焦りかな?)というのは平成の初期とは違った物になっている気がする。
 「日本凄い」も自分たちの良いところを再発見して新たな取り組みを始めようというのならば良い。だが今行われているのは「日本のここがダメ(改善すべきでは?)」というのに対して、聞かないふりや誤魔化しをする事ばかりだ。その究極がそういうマイナスな話をいうのは中韓の回し者だ・・・的なヘイト現象である。そして結局の所は批判に耳を貸さず、むしろさらに耳を閉ざして、ポジティブではなくネガティブな方向にどんどんのめり込んでゆくのがここ10年ほどである。そして必然的な結果として進歩ではなくずるずると退化して、気がつけば世界から周回遅れになって行っている。
 例えばMeTooなどのハラスメントの問題、労働問題や移民についてなど、ヨーロッパなどがぶつかって直面してきた問題などは研究して参考にすれば良いのに、そうじゃなくて逆方向にあえて走っている間がある。(直近であった移民受け入れや高プロの議論を見ればよく解る) そして当然のことだが日本が停滞している間にも世界は、成功であれ失敗であれとにかく歩みを続けている。なので差は広まる一方だ。

 たまたまそれを私が実感して怖いなと思ったのはゲームをやっている時だった。私の好きなRPG(ペルソナ4とペルソナ5)を2018年にまとめてやった時だ。ペルソナ4と5の製作にはだいたい10年ぐらいの時間が経っているのだけど、ゲームの登場人物の日常がほとんど同じなのだ。スマホがあるかどうかぐらいしか違いが無い。だがそれに違和感を感じないぐらいに自分がそれが当たり前だとおもっている。つまり日本ってそれぐらいに変わっていない。むしろ変化を拒否したがゆえに緩やかに退化している事なのだと思う。

 では停滞しているのはここ10年だけなのだろうか? そうやって考えると失われた20年という言葉が示すようにずっと以前から、むしろ平成になった頃からずっと日本社会は停滞してきたのではないかという風に思えてくる。進歩がないと言うよりはあたかも変化を拒否してきたように・・・。
 そう思ってちょっとだけ平成の出来事を振り返って見てみると、実は平成元年(1989)ってベルリンの壁が崩壊した年なのだと気がついた。ベルリンの壁が崩壊するさまは私もTVで見たが「こんな凄い事が生きている間に見られるなんて!」と当時は素直に感動したのを覚えている。そして今にして思えばあれが冷戦終結の合図であって、以後の世界はよくも悪くも大きく変わった・・・。
 冷戦終結は今にして思えば大きなパラダイムシフトである。そしてそこから日本の停滞というかボタンのかけ違いが始まったのではないかと今考えると思える。(3年後の1991にバブルが崩壊したのは象徴的だ)

 では平成の前の昭和の高度成長時代とは何だったのだろう? アメリカとソビエトの対立で世界が区切られるなかで、日本はアメリカの軍事力の影でひたすら商売に邁進した。こんな言い方をあえてするのは当時の日本には経済成長だけが全てであって、儲けるそして世界を見返す・・・しか頭になかったからだ。でも本当は他にも考えるべきテーマ(長期的な、あるいは本質的な)は幾つもあった。そしてその多くは現在まさにホットなトピックになっている。
 例えば「憲法9条による戦争放棄をどう実現してゆうのか」とか「民主主義社会をどう育ててゆくのか」「物質的な豊かさが安定してきた中で人間社会をどう成熟させるか」など幾らでもあったと思う。でもそれらは最終的に小さくなってゆき、最後には「儲かっていれば良いんじゃね」とか「儲かっていれば大丈夫だよね」になってしまっていたように思える。

 言い換えれば、日本は冷戦という一種の特殊な状態に全力で適応することで経済成長してきた。しかし冷戦が無くなった時、もう状況が変わったという時に、変化を受け入れるのではなくそれを拒否してきたのではないか?
 そしてあたかも何も変わらないかのように同じ事をつづけて徐々に停滞してきたのではないだろうか?
 きっと冷戦崩壊は色々と私たちの考えを見直すチャンスだった。例えば米軍との関係、中韓などの近隣諸国との関係。そう考えれば村山内閣による「村山談話」や民主党が生まれる事などは、ある意味では時代の文脈の中では必然的な現象だったのではないか。でもそれも結局は大きなうねりに成りきれなかった。その後は揺り戻して古い時代へと遡ってゆく。それが極端になったのは第二次安倍内閣だ。

 ちなみに私はここの場で安倍内閣が村山内閣が云々という細かいことに言及する気は無い。むしろここで問題として挙げたいのは「結局のところ日本がやってきたのは、目前にある出来事から目をそらそうとした誤魔化しばかりじゃないのか?」という点だ。
 はたして真剣に変化に向き合って考えたり悩んだりしてきたのか?、そうじゃなくてただ昔は良かったねとか・・・そういう中途半端な誤魔化しばかりしてきたのではないかという点だ。
 もしも真剣に考えていたのなら、本気で取り組んできたのならば、たとえ失敗したとしてもそこから学んで前に進む事ができただろう。だが現実を認めない、さらには失敗も認めないとなると、あとは落ちるところまで落ちるしかない。

 こういった事により私は平成とは「停滞」の時代であり、もっと言えば「皆んなが不真面目だった。目の前の変化や問題に取り組むのを避けてきた時代」だと述べる。


3.平成の後の分岐点
 平成は停滞だった。ひたすらに後ろ向きな時代だった。ではその次はどうなるのか?
 私は次こそが分岐点であって日本人は必ず決断をしなければならないと思う。

<シナリオ1:さらに衰退+崩壊?:安倍政権が象徴する従来路線>
 シナリオ1は今のままの流れがそのまま続くケースである。要するに変化に日本人全体が向き合おうとせず、今さえ良ければ、今まで通りにやれば大丈夫なはずだ・・・として進んだ未来だ。私はこの確率は結構高いと思う。でもこれはなんら希望の無い未来だ。
 何故ならば変化を受け入れないのであれば、今よりもずっと現実を見ず内向きで引きこもるしかない。すなわちWW2時代の大本営発表の時代だ。もしそうなれば今以上に都合の良い夢を与えてくれるペテン師が大手を振ってあるくようになるだろう。どんどんと実態は悪くなり、そしてどこかで国家が破綻するかもしれない。あるいは破綻を回避するために民主制の廃止や、近隣諸国との戦争を始めるかもしれない。でもどこをどう辿ろうが最終的には破滅しかないと思う。

<シナリオ2:改革の時代>
 シナリオ2は日本人が目の前にある課題に積極的に取り組むことを選択したケースだ。つまりは甘い夢(大本営発表)から覚め「このままだとヤバイ。みんな真剣にやろぜ!!」となる道だ。今とは逆である。でも私はシナリオ2の可能性もまったく無いわけではないと思う。
 実際に今の日本の現実は相当にヤバイと私は思う。政府の汚職、公文書改ざん、原発問題、TPP、FTA、東京五輪、万博・・・、どれ一つとっても国民がブチ切れて暴動が発生しても本来は不思議がないぐらいの大問題だ。なのでいつブチ切れて政権が転覆、混乱をしつつも新たな試行錯誤へとなっても不思議はない。

 でもここまで書いて思ったが、どのシナリオ1も必ずや相当な痛みや苦悩を体験するだろうという事を想定している。でもそう言うと「どっちでもいっしょじゃん?」「ならダラダラ行けばいいじゃない?」と思う人もいかもしれない。
 でも私に言わせるとシナリオ1と2は大きく違う。1のように誰かにぶん殴られて初めて態度を改めるのと、2のように自分自身の気づきで変わるのはまったく意味が違う。前者は自立できてない子供だが、後者は自分で道を選べる大人の選択だ。
 なので最終的に問われるのは、
「ずっと子供のままでいたいの?」
「それとも大人になりたいですか?」
 それによって未来も相応に変わるだろう。


4.世界の流れ
 ではちょっと日本を離れて、世界はどのような流れに向かうのか、その文脈を読んでみるとする。
 私の懸念はやっぱりトランプ大統領である。基本的にアメリカさえ良ければ(自分さえ良ければ)という本能に忠実な人だから、どこかでとんでもない事をやらかす懸念がある。思えば朝鮮半島の問題もやばかった。一時は朝鮮半島で戦争勃発→日本に核攻撃または原発攻撃で大汚染とかを真剣に心配した。これに関して言えば文在寅ありがとうしかない。
(ちなみに安倍はトランプに追従して煽るだけだった。彼は間違いなく史上最低の日本首脳だと思う)
 そして同様のヤバイ問題はまだまだある。最近聞いた米国がシリアから撤退というのも驚いたし。あの調子で何のフォローもなく米軍がヨーロッパから徐々に撤退してゆくということになれば、これは色々とデンジャラスな事態が起こるかもしれない。
 だがアメリカ以外にも世界を引っ張る大きな極がいくつかある。

<世界を引っ張る極と所感>
・日米ペア:トランプ+安倍コンビで先が読めない。将来的には問題の火種になりそうな気がする。
・ロシア :日米ペアがグダグダなのに付け込んで色々とやらかされるのが怖い。
・EU    :EUには知的な面で期待したいが、面倒ごとを多く抱えるエリアなので世界を主導する事は無いと思う。
・中韓ペア:中国+韓国ペアはある意味ではブレない気がする。結果的には世界のまとめ役になってゆくかもしれない。
 *補足:これを書きながらふと思ったけど、世界の勢力図として考えると案外に中国+韓国ペアは安定なのかも。

 ちなみに他にもきっと色々な要素はあるのだろうけど、私のレベルから推理する荒い文脈だと上記ぐらいが世界の極だ。アラブ世界が例えばトルコあたりがどうなって行くのかは読みづらい。ただ彼らが一本にまとまってゆくシナリオはキッカケさえ見えてないので極とまでは成らないと思う。


5.その他もろもろ
1)経済
 トランプショックで経済は引き続き揺れると思う。だが世界レベルでの恐慌の様な兆候はないように思う。揺れるが全体を通せばそれなりになっているのかもしれない。
 しかし日本について言えば正直よくわからない。もともと政府が主導で株を釣り上げたり、統計を改ざんした数字を出してきている状態なので実態などわかるはずもない。まあ隠すだけあって良くないのだという事だけはわかる。だが経済に詳しくない私にはここから具体的に何が起こるのかがよくわからない。
 ただ思うのは日本が起点で恐慌を起こしたとしても世界はそれなりに進む気がする。日本の負債は大部分が日本国内で持ち合っていると言う、ならば逆に考えると世界は「日本を助けなくても良い。(問題ない)」と考えるかもしれない。
 その時に何が起こるのかだが正直よくわからない。日本全国が夕張市みたいになるのか? それともアルゼンチンみたいになるのか? でもそう考えた場合にもともと資源が豊富な国での破綻と、日本みたいに資源がない上に食料自給率も低い国で破綻があれば一層シビアさが格段に違うのではないかと考えるぐらいだ・・・。


2)日本の悪名がますます広がる
 ゴーン逮捕によって日本の司法が中世並みで人権無視がはなはだしい事が世界に広まった。加えてIWC脱退+商業捕鯨の再開は結果的には東京オリンピックのボイコットへとつながるかもしれない。ちなみにちょっと英語でTwitter記事とかを検索してみると商業捕鯨に対する批判は本当に大きい。
 私は英語の勉強も兼ねて時々だけど言語=英語で日本に関する記事を検索している。そうすると解るけどTwitterとかでみるとそもそも日本が話題になる事などあまりない。つまりクールジャパンだの何だの言っても、そもそもみんな日本の事を知らないんだねって事がよく解る。まあこれは考えれば当たり前で、私もフランスやイタリアのニュースとかほぼ知らないしそれが普通なのだと思う。
 ところが幾つか英語圏で話題となっていたのが幾つかある。1つはパソコンが使えないので有名となった桜田大臣だ。「Sakurada Japan」で検索するとあちこちで話題になっていて世界のお笑いになったのが解る。もう1つが慰安婦像をめぐっての姉妹都市解消という記事。これも「えっなんで?」「イカれてる」みたいな驚きのコメントが多かった。
 しかしそれらよりずっとIWC脱退+商業捕鯨再開の方が反響は大きい。今までで知る限り最も大きな怒りを世界で買っているような感触がある。なので実際に東京五輪ボイコットは現実化してくる可能性がある。もしも本当に東京五輪ボイコットが目に見える規模になったら、さすがに日本社会もそれらを直面するしかないと思う。むしろ色々な考えを改める良い機会になるかもしれない。